2019年09月27日
たそがれの城~E257系で行く、山梨城巡りの旅6~
新府城へ着きました。駐車場から城内へ入ります。文化庁などが発掘調査を行っているようで、説明看板があちらこちらにありました。
ちらほらと雪が残り、また雲が出てきて肌寒い気候になりましたが、木々が少ないだけ、城巡りにはうってつけの時期でもあります。
新府城は城の西側が釜無川を望む深い崖になっていて、天然の要害になっていました。
井戸跡や木橋の跡を見ながら、二の丸から本丸へと向かいます。
本丸は広くとられており、ここに御殿があったのでしょう。
地図を見ると、かなりの城であったことがわかります。8年しか存在していなかった城だからこそ、遺構が残ったともいえ、発掘調査の成果が説明されていました。
最初の城主、武田勝頼は天正9年(1581年)12月24日に甲府の武田氏館からこの新府城へ移ったそうです。ただ間もなく翌天正10年(1582年)2月には織田信長の甲州征伐が始まり、各地で武田、織田の戦いが続いたそうです。そして劣勢の武田勝頼は3月3日、この新府城に火を放ち、逃亡しましたが、3月11日家臣に裏切られ、自刃することになりました。在城は3か月、実際は出陣していた時期も考えれば、そんなにはこの城にはいなかったのかもしれません。いろいろな意味で非運な武将であったのかもしれません。
黄昏時の城跡を歩きながら、悲運の武将に思いをはせながら城巡りを終えました。
甲府までレンタカーをすっ飛ばし、返却。帰りの特急「かいじ」号は新型のE353系でした。
4つの城を巡って、戦国、安土桃山時代の甲府国の主な城を巡れました。
E257系で行く、山梨城巡りの旅 終了。
ちらほらと雪が残り、また雲が出てきて肌寒い気候になりましたが、木々が少ないだけ、城巡りにはうってつけの時期でもあります。
新府城は城の西側が釜無川を望む深い崖になっていて、天然の要害になっていました。
井戸跡や木橋の跡を見ながら、二の丸から本丸へと向かいます。
本丸は広くとられており、ここに御殿があったのでしょう。
地図を見ると、かなりの城であったことがわかります。8年しか存在していなかった城だからこそ、遺構が残ったともいえ、発掘調査の成果が説明されていました。
最初の城主、武田勝頼は天正9年(1581年)12月24日に甲府の武田氏館からこの新府城へ移ったそうです。ただ間もなく翌天正10年(1582年)2月には織田信長の甲州征伐が始まり、各地で武田、織田の戦いが続いたそうです。そして劣勢の武田勝頼は3月3日、この新府城に火を放ち、逃亡しましたが、3月11日家臣に裏切られ、自刃することになりました。在城は3か月、実際は出陣していた時期も考えれば、そんなにはこの城にはいなかったのかもしれません。いろいろな意味で非運な武将であったのかもしれません。
黄昏時の城跡を歩きながら、悲運の武将に思いをはせながら城巡りを終えました。
甲府までレンタカーをすっ飛ばし、返却。帰りの特急「かいじ」号は新型のE353系でした。
4つの城を巡って、戦国、安土桃山時代の甲府国の主な城を巡れました。
E257系で行く、山梨城巡りの旅 終了。
2019年09月20日
鳥もつ丼を食らう~E257系で行く、山梨城巡りの旅5~
要害山城を降りて、昼食を食べる前に甲府駅北口の甲府市藤村記念館に寄ります。
明治時代に学校の校舎として建てられた建物が移築されていて、その中に要害山城の「続日本100名城スタンプ」があり、押すことに成功しました。
北口にはJRの駅に分断された甲府城の山手御門が復元されていました。
中も入ることができて見学できました。
さて昼食です。車を走らせて、奥藤本店国母店にやってきました。
B-1グランプリ全国制覇した鳥もつ丼の元祖店だそうです。
初めて食べた味でしたが、甘辛くて美味しゅうございました。
ご飯食べた後、西北へ向かいます。到着したのは韮崎市民俗資料館。
ここにも「続日本100名城スタンプ」がありました。ここのスタンプは新府城のものでした。新府城は武田信玄の息子、勝頼が武田神社の武田氏館から本拠を移した城でした。城自体は完成して数か月で放棄され、そのまま武田氏は滅亡し、その後、織田、徳川氏の領有を経て、8年ぐらいで廃城になってしまった悲運な城でした。
韮崎市民俗資料館自体は少し昔の資料館でした。そろそろ夕方。最後の城、新府城へ向かいます。
6へ続く
明治時代に学校の校舎として建てられた建物が移築されていて、その中に要害山城の「続日本100名城スタンプ」があり、押すことに成功しました。
北口にはJRの駅に分断された甲府城の山手御門が復元されていました。
中も入ることができて見学できました。
さて昼食です。車を走らせて、奥藤本店国母店にやってきました。
B-1グランプリ全国制覇した鳥もつ丼の元祖店だそうです。
初めて食べた味でしたが、甘辛くて美味しゅうございました。
ご飯食べた後、西北へ向かいます。到着したのは韮崎市民俗資料館。
ここにも「続日本100名城スタンプ」がありました。ここのスタンプは新府城のものでした。新府城は武田信玄の息子、勝頼が武田神社の武田氏館から本拠を移した城でした。城自体は完成して数か月で放棄され、そのまま武田氏は滅亡し、その後、織田、徳川氏の領有を経て、8年ぐらいで廃城になってしまった悲運な城でした。
韮崎市民俗資料館自体は少し昔の資料館でした。そろそろ夕方。最後の城、新府城へ向かいます。
6へ続く
2019年09月13日
山城に登る~E257系で行く、山梨城巡りの旅4~
武田氏館を後にして、要害山城へ向かいます。車で10分ほど北に向かうと、駐車場があり、そこに止めました。登山口へ向かいます。
山の上に城があるので、地図見ながら登り始めます。
途中、武田氏館からの道と合流しました。有事の際はこの道を通って要害山城に行ったのかもしれません。
どんどん登っていくと、「史跡境界」を発見。ここから上が史跡になっているとのこと。
山道の途中で、いろいろな遺構がありますが、ほとんど藪の中でわからないのが残念ですね。
竪堀跡
竪堀跡と土塁
門跡
曲輪
不動曲輪、この名前は後世につけられたもののようで、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものだそうです。
石垣の跡
さらに登り続けていると、眼下に武田氏館が見えました。
ようやく、山上に着き門跡をこえると、本丸らしいところに出ました。
いくつか建物が建てられる広さのある曲輪の中に武田信玄誕生の碑がありました。
武田信玄の誕生時に駿河の今川氏が攻めてきたために、信玄の母親大井夫人が、この場所に避難してきて、ここで信玄を生んだとのこと。この要害山城は有事の際は武田氏館からこの地に避難してきて、籠城できるようにしたそうです。
本丸からは、富士山が見えました。
ここまで約30分かかって登ってきました。また30分かけて降ります。
そろそろ昼食を食べたくなってきました。
5へ続く。
山の上に城があるので、地図見ながら登り始めます。
途中、武田氏館からの道と合流しました。有事の際はこの道を通って要害山城に行ったのかもしれません。
どんどん登っていくと、「史跡境界」を発見。ここから上が史跡になっているとのこと。
山道の途中で、いろいろな遺構がありますが、ほとんど藪の中でわからないのが残念ですね。
竪堀跡
竪堀跡と土塁
門跡
曲輪
不動曲輪、この名前は後世につけられたもののようで、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものだそうです。
石垣の跡
さらに登り続けていると、眼下に武田氏館が見えました。
ようやく、山上に着き門跡をこえると、本丸らしいところに出ました。
いくつか建物が建てられる広さのある曲輪の中に武田信玄誕生の碑がありました。
武田信玄の誕生時に駿河の今川氏が攻めてきたために、信玄の母親大井夫人が、この場所に避難してきて、ここで信玄を生んだとのこと。この要害山城は有事の際は武田氏館からこの地に避難してきて、籠城できるようにしたそうです。
本丸からは、富士山が見えました。
ここまで約30分かかって登ってきました。また30分かけて降ります。
そろそろ昼食を食べたくなってきました。
5へ続く。
2019年09月06日
人は城、人は石垣、人は堀~E257系で行く、山梨城巡りの旅3~
駅前に戻り、レンタカーを借ります。えきねっとで駅レンタカーが安くなるので、大助かりです。まずは武田信玄の本拠地、武田氏館こと躑躅ヶ崎館へ。いまは武田信玄をまつる武田神社があります。大正時代に作られたそうで、その時に城跡の一部を壊してしまったそうですが、比較的遺構が残っていて、日本100名城の一つに選ばれているそうです。
今の武田神社の入り口は立派な石垣ですが、本来はここには門はなく、神社創建時に石垣を壊して橋と入り口を作ったそうです。
ここからの甲府市街地の眺めは素晴らしく、ここに門がなかったのは不思議なくらいですが、戦国時代なので、防御が一番だったのかもしれませんね。
神社に参拝して、館の周りを一周します。基本は石垣ではなく土塁と堀ですね。
中に入ります。
中はこんな感じ、神社以外のところはあるがままでした。
西側の曲輪の北門は武田氏の作った桝形虎口と呼ばれる跡が残っていました。
館の北側は発掘調査が行われていました。奥の山々の一つがこの後行く要害山城です。
北側から、曲輪見ると深い堀、石垣と土塁が見えます。こちらのほうが戦国時代の感じが残っていますね。
城の東側に回ると、大手門の跡がありました。門前は発掘調査が行われたそうで、展示がされていました。
大手門跡の入り口です。戦国時代の入り口はここだったそうです。
東側の堀。
上から見た図もあったので撮影してみました。
結構、堀なども険しく堅固な館でしたが、戦国時代、戦いには万全とは言えず、戦いのときはそこに立てこもって身を守る、詰城として山城の要害山城があったそうで、これからそこに行きます。
4へ続く。
今の武田神社の入り口は立派な石垣ですが、本来はここには門はなく、神社創建時に石垣を壊して橋と入り口を作ったそうです。
ここからの甲府市街地の眺めは素晴らしく、ここに門がなかったのは不思議なくらいですが、戦国時代なので、防御が一番だったのかもしれませんね。
神社に参拝して、館の周りを一周します。基本は石垣ではなく土塁と堀ですね。
中に入ります。
中はこんな感じ、神社以外のところはあるがままでした。
西側の曲輪の北門は武田氏の作った桝形虎口と呼ばれる跡が残っていました。
館の北側は発掘調査が行われていました。奥の山々の一つがこの後行く要害山城です。
北側から、曲輪見ると深い堀、石垣と土塁が見えます。こちらのほうが戦国時代の感じが残っていますね。
城の東側に回ると、大手門の跡がありました。門前は発掘調査が行われたそうで、展示がされていました。
大手門跡の入り口です。戦国時代の入り口はここだったそうです。
東側の堀。
上から見た図もあったので撮影してみました。
結構、堀なども険しく堅固な館でしたが、戦国時代、戦いには万全とは言えず、戦いのときはそこに立てこもって身を守る、詰城として山城の要害山城があったそうで、これからそこに行きます。
4へ続く。
2019年09月02日
駅前の城~E257系で行く、山梨城巡りの旅2~
更新が遅れました。申し訳ありません。
甲府駅を降りると、ホームから城の石垣が見えます。甲府城です。さっそく向かいます。石垣だけでなく、櫓なども復元されています。これは稲荷櫓です。
江戸時代は甲府駅の敷地も城の中でしたが、明治以降に駅になり分断されてしまいました。駅の反対側にも山手御門という門が復元されています。
稲荷櫓の中に入れました。ここで100名城スタンプが押せます。展示もしてました。
甲府というと、戦国武将の武田信玄が有名ですが、信玄の時代にはこの城はありませんでした。戦国時代は北のほうに後で行く躑躅ヶ崎館というところが武田氏の本拠地でした。その頃はここら辺は城下町の南端だったそうです。武田氏が滅亡し、織田、北条、徳川氏の領有のあと、豊臣秀吉の家来によって築城されたそうです。江戸時代に入ると、徳川将軍家の親族が領有する城になり、のちには江戸幕府直轄領になったのでした。そのため、ほぼ戦争を体験していない城です。
城内はほかにも鉄門などが復元されています。
いよいよ城の中心、本丸です。奥には天守台が見えます。
天守台に上がると、甲府の街が一望です。
遠くには富士山、
南アルプスも見えます。
ここに天守閣があったかは分からないとのこと。当時の絵図や図面は見つからないそうで、なかったのではないかということですが、発掘調査だと豊臣時代の瓦の破片などが見つかったそうで、築城当時はあったが、いつかの時点で一度壊れて、再建されなかったというのが真相のような気がします。
城を一回りして、駅前に戻ります。
3へ続く
甲府駅を降りると、ホームから城の石垣が見えます。甲府城です。さっそく向かいます。石垣だけでなく、櫓なども復元されています。これは稲荷櫓です。
江戸時代は甲府駅の敷地も城の中でしたが、明治以降に駅になり分断されてしまいました。駅の反対側にも山手御門という門が復元されています。
稲荷櫓の中に入れました。ここで100名城スタンプが押せます。展示もしてました。
甲府というと、戦国武将の武田信玄が有名ですが、信玄の時代にはこの城はありませんでした。戦国時代は北のほうに後で行く躑躅ヶ崎館というところが武田氏の本拠地でした。その頃はここら辺は城下町の南端だったそうです。武田氏が滅亡し、織田、北条、徳川氏の領有のあと、豊臣秀吉の家来によって築城されたそうです。江戸時代に入ると、徳川将軍家の親族が領有する城になり、のちには江戸幕府直轄領になったのでした。そのため、ほぼ戦争を体験していない城です。
城内はほかにも鉄門などが復元されています。
いよいよ城の中心、本丸です。奥には天守台が見えます。
天守台に上がると、甲府の街が一望です。
遠くには富士山、
南アルプスも見えます。
ここに天守閣があったかは分からないとのこと。当時の絵図や図面は見つからないそうで、なかったのではないかということですが、発掘調査だと豊臣時代の瓦の破片などが見つかったそうで、築城当時はあったが、いつかの時点で一度壊れて、再建されなかったというのが真相のような気がします。
城を一回りして、駅前に戻ります。
3へ続く
2019年08月23日
さよならE257系~E257系で行く、山梨城巡りの旅1~
2019年の2月に山梨県の城巡りをしてきました。最近日本100名城めぐりにはまっていて、続100名城も含めて山梨県にある4つの城を巡りたいなと思っていました。
ちょうど2019年3月のJRのダイヤ改正で長年中央線を走ってきた特急あずさのE257系車両が新型車両E353系に置き換えられるということで、その惜別をしたいなとも思っていました。また3月のダイヤ改正では新型車両に代わるとともに、自由席がなくなり、全車座席指定席になるとのこと。それだけではなく、今まで事前購入で安くなっていたえきねっとのチケットの割引率が引き下げられるとのことで、安く行くには今のうちだということで2月のある日曜日に山梨へ向かうことにしました。
新宿駅7時30分の「あずさ3号」で甲府へ向かいます。現地で長くいたいのなら30分早く出る「スーパーあずさ1号」ですが、新型車両に代わってしまっているので、3号にしたのでした。
E257系は武田菱を模したであろうデザインが印象的です。
冬の中央線に乗ると、富士山がきれいに見えるのはいつものことですがうれしいですね。
勝沼を過ぎると、甲府盆地がきれいに見えてきます。
甲府盆地の向こうには南アルプスが雪をかぶっておりました。
甲府盆地から見る富士山は関東平野から見るものとはまた別のものですね。
9時03分甲府へ到着。ここで降ります。甲府では新旧の車両を見ることができました。
2001年の登場以来何度も乗った中央線のE257系とはたぶんこれでお別れです。お世話になりました。聞いたところによると、廃車にならず、伊豆行きの特急「踊り子号」の車両に転用されるらしいので、また乗りに行きたいと思います。
2へ続く。
ちょうど2019年3月のJRのダイヤ改正で長年中央線を走ってきた特急あずさのE257系車両が新型車両E353系に置き換えられるということで、その惜別をしたいなとも思っていました。また3月のダイヤ改正では新型車両に代わるとともに、自由席がなくなり、全車座席指定席になるとのこと。それだけではなく、今まで事前購入で安くなっていたえきねっとのチケットの割引率が引き下げられるとのことで、安く行くには今のうちだということで2月のある日曜日に山梨へ向かうことにしました。
新宿駅7時30分の「あずさ3号」で甲府へ向かいます。現地で長くいたいのなら30分早く出る「スーパーあずさ1号」ですが、新型車両に代わってしまっているので、3号にしたのでした。
E257系は武田菱を模したであろうデザインが印象的です。
冬の中央線に乗ると、富士山がきれいに見えるのはいつものことですがうれしいですね。
勝沼を過ぎると、甲府盆地がきれいに見えてきます。
甲府盆地の向こうには南アルプスが雪をかぶっておりました。
甲府盆地から見る富士山は関東平野から見るものとはまた別のものですね。
9時03分甲府へ到着。ここで降ります。甲府では新旧の車両を見ることができました。
2001年の登場以来何度も乗った中央線のE257系とはたぶんこれでお別れです。お世話になりました。聞いたところによると、廃車にならず、伊豆行きの特急「踊り子号」の車両に転用されるらしいので、また乗りに行きたいと思います。
2へ続く。