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Posted by TI-DA at

2011年04月24日

初沖縄体験記(2000/2/22~2/25)(後)

ガラス工芸とやちむんの里をたずねて


【恩納村の海岸にて】


 三日目、今日も曇りだった。2日前に沖縄の地を踏んで以来、太陽を見ていない。名護市役所に行き資料をもらい、名護市街をぶらぶら歩いたあと西海岸を那覇へ南下する。昨日とうって変わって観光色豊かな一日になりそうである。沖縄サミットの開催場所である万国津梁館(ばんこくしんりょうかん)の工事現場を横目で見ながらバスは西海岸に沿う沖縄の大動脈国道58号を下っていく。今日の最初の目的地は恩納村の琉球共栄ガラス工房だった。沖縄のガラス工芸は戦後米軍のコーラ等のびんくずを溶かし生活用品にしたところから始まり、今では沖縄を観光土産の一つになっている。お見せできないのが残念だが、いろいろな色が透きとおる感じはとても美しかった。


 バスは南下し、読谷村(よみたんそん)に入った。読谷村は人口約三万人の大きな村である。まわりの市や町よりも大きく、この村よりも人口の多い村は沖縄県豊見城村、岩手県滝沢村など数えるほどしかない。なぜ市制を敷かないのか不思議だが、それは多分、読谷村自体が固有名詞になっていて、読谷市や読谷町ではおかしくなるからだろう。ここ読谷村はまた焼き物の登り窯が集まっていて、やちむんの里とも呼ばれている。また二年前に全国デビューを果たした二人組の女性デュエットkiroroの出身地でもある。そして読谷は沖縄戦において米軍が最初に上陸した地であり、戦後も読谷飛行場を始め、多くの基地があったが、この村は村長を先頭に返還運動を起こし、近年、村役場を基地の中の返還地に移した。そして沖縄でも数少ない村立の美術館を持っている。基地と戦いながら文化,芸術の発展にも力を入れる、いろいろな意味で元気な土地なのである。



 私が最初に目指したのは沖縄の歴史に出てくる座喜味城跡である。戦後荒れ果てたが、基地返還後に整備された。石造りの城壁は日本本土にはない、美しい作りであった。ここからは読谷村が一望できる。下の写真がそれであるが奥にはあとで行く象のオリが見える。詳しくは後ほど。


 【読谷村座喜味城跡にて】

                

 【座喜味城跡より読谷村中心部と象のオリを見る。】                                                           

 座喜味城跡のふもとに読谷村立歴史民俗資料館と美術館がある。こじんまりしながらもきちんとした建物であった。沖縄で公立の美術館は浦添市とここしかない。県立の美術館もないのである。ちょうど読谷やちむん展と呼ばれる琉球陶器展が行われていた。オーソドックスなものから斬新なものまでさまざまな作品が展示されていた。すごいと思ったのは、ぱらぱらと地元の人達が入れかわり立ちかわり、何かのついでのように気軽に立ち寄っていくことだった。お互いにあれこれと批評しながら見ている。これほど村民に溶け込んでいる美術館も珍しいのではないだろうか。     
 
 同じ建物の中にある歴史民俗資料館に村の地図が貼ってあった。それを見ると村の中央部は今でも米軍と村の共同使用地になっている読谷飛行場があり、市街地が飛行場のまわりをドーナツ状に囲んでできている。今、私は飛行場の北西にいるわけだ。現在でも米軍基地は村内の45パーセントを占めているのだと言う。

私は残波岬を目指した。沖縄本島の地図を見ていただくと分かりやすいのだが、中部の北の海に突き出た岬が残波岬である。岬の周りは断崖絶壁が続き、ときおり、波が岬を洗う。
多分、岬の名前はここから来ているのではないだろうか?そんなことを思っていたら、私の体も波に洗われてしまった。

 読谷村のはずれにあるバスターミナルに戻ると、もう18時である。2月なのに、まだ明るい。

       
 【米軍楚辺通信所(通称象のオリ)】
  
 このまま那覇へ向かうといい時間なのだが、もうひとつ寄らなくてはならない。バスの運転手に聞きながら、米軍楚辺通信所(通称象のオリ)へ向かう、最寄のバス停から10分ほど坂を登ると、象のオリはあった。象のオリは土地の賃貸契約の期限切れにともない、契約を更新させたくない反戦地主と米軍に基地を提供する日本政府との間でこの数年来、揉めているところである。この問題をきっかけに反対運動が盛り上がり、ここ10年沖縄の問題が表面化するきっかけとなったところでもある。この問題については、おかしいところがたくさんあるのだが、コラムの欄で別の機会に取り上げることにする。実際、象のオリの前に来てみると、警備兵がいるわけではなく、また通信所なので格別の何かがあるわけではない。ただ象のオリというにふさわしい形をしたアンテナがただ静まりかえって立っているだけである。誰もいないので、一種の恐怖感は覚えた。ただ大学に入った頃にここの映像を見て以来、沖縄の米軍基地の問題に興味を持ってみつづけた人間としては感無量ではあった。

 その後、バスはkiroroの母校である読谷高校、明かりがまぶしい広大な嘉手納基地を横目に見ながら、夜の国道58号線を那覇へひた走った。





 首里城のロマンと泡盛    

                                     
 最終日、残念ながら雨であった。結局沖縄の地で太陽を見ることはなかった。午前中は那覇市内の街歩きに当てる。観光スポットである国際通りでお土産を探したり、モノレールの建設現場を見た。そう鉄道のない沖縄に近い将来、鉄道ができるのだ。もっともモノレールが鉄道の仲間かどうかは定かでないが,法律上はそうらしい。けれど、沖縄の人はあまり期待していないみたいである。あとで乗ったタクシーの運転手はモノレールなんて早くもないし、どうかなあと言っていた。ただ那覇市内の道路混雑はひどいものでそれが原因で帰りにえらい目にあった。


 午後は首里城を見学する。首里は那覇の中心部から少し離れた高台にあり、バスに揺られて向かう。まずは沖縄県立博物館をのぞく。左の写真は県立博物館前の道から首里城の方向を見たものである。そして首里城へと向かう。まあすごい観光客である。今まで観光やリゾートと関係ないところばかり旅してきたものだから、軽いめまいを感じた。


 首里城は15世紀初頭から明治の廃藩置県まで約450年間、琉球の首都であり、代々の国王の居城であった。中国の様式を取り入れた和琉折衷様式の建物で、国王が政治を行った正殿、中国の冊封使接待に使われた北殿(にしのうどん)、江戸時代に支配された薩摩の役人の接待所である南殿(はえのうどん)等からなり、戦前は国宝に指定されていた。沖縄戦で全焼し、長く琉球大学の敷地になっていたが、1992年に復元された。


 まず正殿を見て思ったことは建物の赤さだった。ちょうど曇ってしまって残念だったが、もし晴れていれば、バックの青空と赤い正殿とのコントラストが見事だっただろう。中は人ごみで埋まっていたが、沖縄が日本、中国、東南アジアを結ぶ中継貿易地であった歴史と文化をわかりやすく展示していたと思う。

                

【首里城正殿。晴れていれば、さぞきれいだったろうに】

 

【首里城に続く坂道、独特の石垣が特徴的である】

 
 じっくりと首里城を見たために、土産を買う時間がなくなってきた。そのため、那覇の中心街へ戻るバスに飛び乗ったが、夕方の交通渋滞に巻き込まれバスは動かなくなった。バスの中は人がいっぱいで立ちっぱなしである。ふと外を見ると歩いている人にどんどん抜かされていく。普段ならば、自分も降りて歩いていくのだが、道の分からない場所ではそうも行かない。時間がじりじり立っていく。何とか国際通りで降り、午前中にめぼしをつけていた土産店にたどり着き、土産を買った。いろいろ買ったので、行きかえりの交通費と同じ位、お金を使ってしまった。買ったものをいくつかあげてみると、泡盛4本、沖縄の地ビールであるオリオンビール、紅芋のお菓子、ゴーヤ茶、さんぴん茶、ポークの缶詰、沖縄のタウン誌、住宅情報誌等々。あまりにも多く買いすぎたため、手に持ちきれなくなりそうだった。




沖縄を離れて  


 20時35分、日本エアシステム558便は那覇空港を飛び立った。嘉手納ラブコンと呼ばれる米軍の管制システムの影響で低飛行のまま30分位飛び続けた。帰りは天候の悪化でベルトを締めっぱなしだった。ラジオからは雑音に混じりながら中国の言葉が聞こえてきた。

 今回念願の沖縄に来て、見たいと思っていたものをたくさん見たが、これですぐに私の中で何かが変わるわけではない。ただこの旅で得たことは、じわじわと自分を変えていくのだろう。そしてテレビや新聞で沖縄の記事や名護市や辺野古や読谷の地名を見れば、その土地を思い出すだろう。

 日本本土とは違う文化を持っている沖縄はそれだけで大きな魅力である。その一方で沖縄は日本の問題を凝縮した形で抱えている。多分沖縄の問題はすぐには解決できないだろう。でも私達はその問題に目をそらさずに関心を持ちつづけることが必要であり、それが必ず問題の解決への第1歩になるはずである。

 22時40分、飛行機は羽田に着いた。3日ぶりの東京のネオンはまぶしかった。

                                                                  (終)

 

 
  
タグ :沖縄島旅


Posted by さがるまーた at 10:00Comments(0)2000,2 初沖縄の旅

2011年04月17日

初沖縄体験記(2000/2/22~2/25)(前)

我、始めての飛行機に感動す。



 2月22日6時30分、私は羽田空港の機上の人だった。ジェット機の窓から見る天気はこれ以上ない快晴。だが物心ついてから一度も飛行機に乗ったことのない私の心は不安でいっぱいだった。何でこんな鉄の塊が平気で空を飛ぶのだろう?そんなことを数日前に友達に言って笑われたことをもう一度心の中で繰り返していた。私の乗ったMD-90型という飛行機はジェット機ではあるが、ジャンボ機ではないので新幹線の座席のように5列しかない。運良く私は窓際に座れたので、ずっと窓外を見ていた。ターミナルビルの向こう側を鳥の群れが飛び去っていく。

 6時40分飛行機はゆっくりと滑走路をすべり始めた。だんだん胸の鼓動が高鳴っていく。なぜか前のエチケット袋に目がいってしまう。もしだめなら、これに吐けばいいやと気持ち悪くもないのに考えてしまった。そうこうしているうちに飛行機は速度を上げた。見る見る速度を上げていく。それにつれて不安も高まっていく。ああーと不安が頂点に達した瞬間、ふっと浮いた。機体は滑走路の北側を離陸して急旋回して上昇していきながら、ぐんぐん高度を上げて行く。座席の前の方は当然ながら見上げるように自分の体の上にある。ずっと私は前を見ながら、座席にしがみついていた。

 ふと窓外を見ると、眼下に東京湾とその周りの都市が見えた。東京タワー、アクアライン、新宿の高層ビル等など、そして房総半島が見えてきた。それも地図と同じ形をしているのである。そしてその向こうには雲一つない空と輝く太陽があった。これには、不安だった気持ちを忘れて感動した。多分、どれだけの言葉を尽くしても言い表すことはできないだろう。紅の豚というアニメーションでヒロインが同じような状況で『世界ってきれい!』という言い方で感動を表すが、その感動を共有できた気がした。本当に生まれてきて良かった。
心からそう思った。

 飛行機の旅は那覇の上空までは快適そのものだった。眼下には雲海が広がり、太陽が照り輝いた。那覇上空でゆっくりと雲の中へ入り始めた。そのとき、これが沖縄での太陽の見納めだとは思いもよらなかった。そして米軍基地の影響で飛行機は長い間遠回りをして下降を続け、私は気持ち悪くなったのであった。



旅に出るまで  


 いつの頃からだろうか、沖縄に行きたいと考えるようになったのは。小学生の頃から、日本各地を出歩いていた私にとって、土を踏んだことのない土地は沖縄と徳島だけだった。(徳島はいまだに行っていない)鉄道とバス、フェリー等で安く旅していた私にとって、お金のかかる飛行機で行く沖縄はなかなか行きにくい場所だった。


 いつかは行こうと思っていながら、なかなか踏み切れなかった私を決心させたのは、98年11月の沖縄県知事選挙の結果だった。そのときの沖縄県の知事選挙は沖縄から基地をなくそうと訴えた現職の大田昌秀氏と期限付きながら県内に基地を認める稲嶺恵一氏との事実上の一騎打ちだった。沖縄の基地を少しずつでもなくしていくべきだと考えていた私は、心情的に大田氏を支持し、また苦戦は伝えられながらも、県民も最後は大田氏だろうと考えていた。ところが結果は僅差で稲嶺氏の当選だった。その結果に私は衝撃を受け、考えこまされた。ひょっとすると、私は机上で沖縄を考えていたのではないだろうか。実際、沖縄の空気を自分で吸ってみないと、言いも悪いも言うことはできないのではないかと考えた。

 もう一つ私の心を変えさせたのは、一冊の写真集の存在だった。『ものがたり』というその写真集は、その年全国デビューした沖縄出身の女性デュエットkiroroを主人公にしたものだった。今はだいぶ変わってしまったが、デビューしたての彼女達は私達の身近にいるような素人っぽい感じで、歌もとても心に染みるいいものだった。その写真集は彼女達の詩や文章と沖縄を始めとした写真で構成された素晴らしいものであった。それらを見ながら、一度この美しい沖縄の海や空を見てみたいと思った。


 それから一年以上たってしまったが、ようやく念願の沖縄へ旅立つことができた。あちこち探しまわって沖縄往復飛行機代+一泊ホテル代で二万八千円の格安チケットを見つけた。男一人でリゾート地へ行っても意味がないので、見るところは沖縄の基地や歴史名所、そしてkiroroの出身地である読谷村、サミットの開かれる名護市などと決めた。



ひめゆりの塔にて


 一日目は沖縄南部の沖縄戦の跡をたずねた。旧海軍指令壕やひめゆりの塔、資料館をまわった。ひめゆり平和祈念資料館はきちんとした展示をしていた。特にひめゆり学徒隊全員の写真が貼ってある部屋で一人一人の写真を見ると、切なさを感じた。もしこの女性達が今の時代に生まれていれば、平凡かもしれないけれど普通に暮らせたものを、この時代に生まれたばかりにこうなってしまった。今に生きる私達はこの人々をはじめとした多くの尊い犠牲の上に立って、平凡であれど幸せに生きていけるのだということを忘れるべきでない。


 資料館を出て、ひめゆりの塔に立つと、次から次へと団体客がくる。ガイドの説明を受けてすぐ行ってしまう。ほとんどの人は詳しいことはわからないのではないだろうか。ひめゆりの塔はひめゆり学徒隊や負傷兵が隠れていたガマと呼ばれる洞窟の穴の前に立っている。中はほとんど見えない。
塔の前のガマは第三外科壕と呼ばれていたそうである。ということは第1もあるわけで、私はそこへ行ってみた。小雨がぱらつく中、一人脇道に入って草むらの中を歩いていくと、第一外科壕跡はあった。塔の立っている第三外科壕に比べて訪れる人はなく、地元の人が供えたらしい千羽鶴があった。そこは壕のしたまで降りることができた。ほとんど埋まっていたが、そこから眺める空は暗かった。じとじと降る小雨がぽつぽつと壕のしたまで垂れてきた。激しくなる戦争の中で、ここにいたひめゆり学徒をはじめとした人々は何を思い、どうすごしていたのかを私は想った。


 その後、摩文仁の丘にある平和祈念公園へ行った。そこには平和の礎と呼ばれるものがある。扇状に大理石が並び、その石には沖縄戦でなくなった人々の名前が日米両軍、国籍関係なく刻んである。雨が本降りになる中、私は一人それらをみてまわった。


基地の中の沖縄


 2日目、那覇からバスで北上する。最初は宜野湾市の普天間基地へ向かう。普天間基地は代替の基地が見つかれば、日本に返還されることになっている。だがこの代替の場所をめぐって、県内を二分する問題になっている。詳しくは後ほど述べる。

 バスは宜野湾市に入り、地図では近くに基地があるはずだが、店や住宅にさえぎられて見えない。宜野湾市役所に行って基地の見える場所を聞いたところ、近くの佐喜眞美術館を紹介してもらった。佐喜眞(さきま)美術館は基地に土地を持っていた佐喜眞道夫さんが、国、米軍に掛け合って返してもらった土地の上に立っている。中には、『原爆の図』で有名な丸木位里、俊夫妻が書かれた『沖縄戦の図』がある。多くの市民を巻き込んだ沖縄戦は悲惨を極めた。その悲惨さを沖縄戦を体験したおおくの人々の証言に基づいて書かれた絵である。この絵の前に立つと、親が子を殺す様が生々しく描かれ、目を背けたくなる。そんなことが55年前の沖縄では行われていたのである。そしてその後、現在に至るまで、この地は米軍の基地として使われているのである。そのことを思うと、私達が享受している平和というものの貴さと危うさを考えざる得ない。



普天間基地を飛び立つ米軍機【佐喜眞美術館にて】


≪ここで閑話休題≫
 ここで沖縄で感じたすごさをいくつか。
 ①この後、バスを乗り継いで、沖縄本島の東海岸を北上するのであるが、沖縄のバスについて、少しふれたい。私は今回沖縄を路線バスで旅した。旅立つ前、そのことを沖縄に旅行したことのある人に聞くと、とんでもないといわれた。何でだろうと思っていたが、実際行って見て分かった。まずバス停に時刻表がないところが多い。ガイドブックと停留所を見比べて、路線を確認するのが一苦労、そして時間がわからず、停留所で何十分も待つ。もし時刻がわかったとしても、時間どおりにこない。これには参った。
 ②沖縄では元気なお年寄りをおじい、おばあと言う。このおじい、おばあの元気なこと。そして本当に沖縄の人々はのんびりしている。バスが来ないので、時刻表のないバス停で待っているおばあに『いつ来るんですかねえ』と聞くと、『なあに、さっき30分もすれば来るだろうよ』 『何時に来るんですか?』と聞いたら、『そんなもんしらん。でも30分も待てばバスは来るさ』 果たしてバスは25分で来たのであった。


 

 

ジュゴンの住む海にて


 佐喜眞美術館をあとに、極東最大の基地である嘉手納基地を見て一路バスは北上する。東海岸を経て、夕方名護市の辺野古に着いた。知っている方もいると思うが、ここ辺野古は普天間基地の代替基地として、海上ヘリポートの建設が予定され、論議の中心となっている地区である。バス停の前にも「海上ヘリポート建設反対」の看板が立っていた。私は問題となっている場所を見たいと思い、海の方へと歩いていく。街の中は人気もほとんどなく、静まりかえっていた。
 海に出ると、きれいな海が広がっていた。右の写真がその風景である。真ん中には鉄条網が貼ってあり、その向こうが米軍のキャンプシュワブの基地である。奥の島々がヘリポート建設予定地である。海辺に出てみると、透き通った海だった。この海には日本に数十頭しかいない天然記念物のジュゴンがいるという。ジュゴンはきれいで生息に適した海草の生える海に生息できないのだと言う。


【辺野古の海】


 私は座って海を見つめながら考えた。この海は今の社会の構図を凝縮しているのではないのだろうか。米軍ー日本政府ー沖縄県ー名護市ー辺野古へと人の少ない弱い地域へ、強いものが問題を押し付けていく。それが今この海に現れている。私達はこの状況を見過ごしていいのだろうか?近い将来、このきれいな海は消えていってしまうのだろうか。 


 名護市街に入ると、沖縄サミット参加国の旗が街中に翻っていた。辺野古地区と同じ名護市内でありながら、人の多さは比べものにならない。昨年名護市の市長は条件つきながら基地の受け入れを表明している。暗闇の中、やんでいた雨がしとしとと降り出した。

                                                                                        ≪後半へ続く≫  
タグ :島旅沖縄


Posted by さがるまーた at 10:00Comments(0)2000,2 初沖縄の旅

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