2017年08月17日
2017年08月06日
狩勝峠を越えて~タウシュベツ川と狩勝峠の旅7~
日高山脈を越えて、北海道の道央と道東と結ぶ道はこの狩勝峠が最初で江戸時代から十勝街道として存在していたそうです。その狩勝峠を超える鉄道が明治40年(1907年)に開通したそうです。その後、昭和41年(1966年)に勾配を緩和した新線に切り替わるまでの間、急勾配や大カーブ等が続く厳しい運転条件等に耐えながら運用された旧線は、今ではフットパスとして歩けるようになっています。車でも行けると聞いたので、空港までの帰り道がてら、行ってみることにしました。
トロッコの先の道を行くと、ゴルフ場の駐車場のわきを右に入ると車一台がいける道が続いていました。当時は単線だったので、このくらいの幅で妥当なところです。もう日が陰り始めていますね。いい感じの線路跡ですが、誰もいないのが少し寂しいです。本当に線路跡なのか心配になってきました。
さらに行くと、林道と交差しました。そこには看板が。線路跡と書いてあるのに勇気100倍です。
後から建て替えたものらしい126キロのキロポストが見えました。
もうそろそろかな?と思っていると、空が開け、道が右にカーブし始めました。
だいぶ木々が茂っていますが、隙間から十勝地方の景色が。
ちょうどこのカーブが通称「大カーブ」だそうです。
この旧線のこの区間は日本三大車窓の一つとされるほどの素晴らしい景色でした。その頃は蒸気機関車が走っていたからかもしれませんが、付近に木々はなく、展望はもっと良かったようです。新得駅までに同じような大きなカーブはいくつもありますが、峠を越えて初めての大カーブで、一気に展望が開けるこのカーブが「大カーブ」で「日本三大車窓」の一つとしてみんなが感動して選ばれたのかもしれません。
私は登っていくので、ここからは森の中へと入っていきます。
傍らの勾配標が25‰を示しています。25‰は1000メートル走るごとに25メートル登る勾配を現しています。今の列車であれば25‰はそんなに厳しいものではないですが、当時の蒸気機関車が引く客車列車では急勾配だったそうで、登るのももちろん降るのも大変だったそうです。特にこの区間はカーブもきついので速度が高いと脱線するので、運転士は運転に相当苦労したそうです。
また林道との交差点に到着しました。
この先には新内トンネル、そして狩勝峠の下にある狩勝トンネルの入り口まで行けるはずですが、2016年8月の台風で路盤が崩れているそうで、次回回しになりました。
国道38号に出て、狩勝峠へ。
ここからは十勝平野が一望できますね。
峠を越え、今度は石狩国に入りました。今度は狩勝トンネルの反対側にある狩勝信号場跡に行ってみます。
峠を下りて、登り車線のわきにある除雪車の待機場所で車を止めさせてもらいました。そこからも石の擁壁とトンネルの入り口らしきものが見えました。
何とか降りる道を探して降りてみます。川を越えると原っぱが広がりました。
この付近に行き違い用の線路が引かれていて左右に建物があったと思われます。信号所があった付近には土台と説明版がありました。
ここ狩勝信号場はさっきも見た25‰の区間が峠をはさんで長距離続くために、ここで蒸気機関車に給水や給炭するために作られた信号場で、ここで列車の行き違いもしたそうです。
説明版から狩勝峠側を見ます。この先に狩勝トンネルがあるようです。
倒木などもあり、それをよけながら向かうと遠くにトンネルの坑口が見えました。
右側が引き込み線。左側が新得へ向かう本線がトンネルに向かっていく線路があったところです。
トンネル内は湧水があるらしく、入り口付近も水浸しになっていました。
トンネル内は昔ながらのレンガ造りでした。内部は崩壊しているそうです。
戻ろうとすると、擁壁の上で「ドサッ」という音が。熊かと身構えます。こういう時は何か歌を歌って人間を気付かせようととっさに出た歌は「森の熊さん」。「ある日森の中、熊さんに出会った~」これは笑い話にならないくらいですが、本人はいたって本気。背筋がゾクッとしました。
次の音で心臓が止まりそうなくらいビビりましたが、シカが逃げていったようで命拾いしました。
信号場の中心部分に戻ります。
すると、またシカが、出てきて札幌方面の本線上へ走っていきました。
もう時間切れです。これでは飛行機に間に合わないかもしれませんので車飛ばして帰ります。
帰る直前に狩勝峠と狩勝トンネルの2ショットが取れました。先人の苦労を垣間見れた旅になりました。
タウシュベツ川と狩勝峠の旅(完)
トロッコの先の道を行くと、ゴルフ場の駐車場のわきを右に入ると車一台がいける道が続いていました。当時は単線だったので、このくらいの幅で妥当なところです。もう日が陰り始めていますね。いい感じの線路跡ですが、誰もいないのが少し寂しいです。本当に線路跡なのか心配になってきました。
さらに行くと、林道と交差しました。そこには看板が。線路跡と書いてあるのに勇気100倍です。
後から建て替えたものらしい126キロのキロポストが見えました。
もうそろそろかな?と思っていると、空が開け、道が右にカーブし始めました。
だいぶ木々が茂っていますが、隙間から十勝地方の景色が。
ちょうどこのカーブが通称「大カーブ」だそうです。
この旧線のこの区間は日本三大車窓の一つとされるほどの素晴らしい景色でした。その頃は蒸気機関車が走っていたからかもしれませんが、付近に木々はなく、展望はもっと良かったようです。新得駅までに同じような大きなカーブはいくつもありますが、峠を越えて初めての大カーブで、一気に展望が開けるこのカーブが「大カーブ」で「日本三大車窓」の一つとしてみんなが感動して選ばれたのかもしれません。
私は登っていくので、ここからは森の中へと入っていきます。
傍らの勾配標が25‰を示しています。25‰は1000メートル走るごとに25メートル登る勾配を現しています。今の列車であれば25‰はそんなに厳しいものではないですが、当時の蒸気機関車が引く客車列車では急勾配だったそうで、登るのももちろん降るのも大変だったそうです。特にこの区間はカーブもきついので速度が高いと脱線するので、運転士は運転に相当苦労したそうです。
また林道との交差点に到着しました。
この先には新内トンネル、そして狩勝峠の下にある狩勝トンネルの入り口まで行けるはずですが、2016年8月の台風で路盤が崩れているそうで、次回回しになりました。
国道38号に出て、狩勝峠へ。
ここからは十勝平野が一望できますね。
峠を越え、今度は石狩国に入りました。今度は狩勝トンネルの反対側にある狩勝信号場跡に行ってみます。
峠を下りて、登り車線のわきにある除雪車の待機場所で車を止めさせてもらいました。そこからも石の擁壁とトンネルの入り口らしきものが見えました。
何とか降りる道を探して降りてみます。川を越えると原っぱが広がりました。
この付近に行き違い用の線路が引かれていて左右に建物があったと思われます。信号所があった付近には土台と説明版がありました。
ここ狩勝信号場はさっきも見た25‰の区間が峠をはさんで長距離続くために、ここで蒸気機関車に給水や給炭するために作られた信号場で、ここで列車の行き違いもしたそうです。
説明版から狩勝峠側を見ます。この先に狩勝トンネルがあるようです。
倒木などもあり、それをよけながら向かうと遠くにトンネルの坑口が見えました。
右側が引き込み線。左側が新得へ向かう本線がトンネルに向かっていく線路があったところです。
トンネル内は湧水があるらしく、入り口付近も水浸しになっていました。
トンネル内は昔ながらのレンガ造りでした。内部は崩壊しているそうです。
戻ろうとすると、擁壁の上で「ドサッ」という音が。熊かと身構えます。こういう時は何か歌を歌って人間を気付かせようととっさに出た歌は「森の熊さん」。「ある日森の中、熊さんに出会った~」これは笑い話にならないくらいですが、本人はいたって本気。背筋がゾクッとしました。
次の音で心臓が止まりそうなくらいビビりましたが、シカが逃げていったようで命拾いしました。
信号場の中心部分に戻ります。
すると、またシカが、出てきて札幌方面の本線上へ走っていきました。
もう時間切れです。これでは飛行機に間に合わないかもしれませんので車飛ばして帰ります。
帰る直前に狩勝峠と狩勝トンネルの2ショットが取れました。先人の苦労を垣間見れた旅になりました。
タウシュベツ川と狩勝峠の旅(完)
2017年08月02日
狩勝トロッコと個室寝台車を訪ねて~タウシュベツ川と狩勝峠の旅6~
ドライブインいとうから屈足市街を経て、狩勝峠の「狩勝高原エコトロッコ鉄道」へやってきました。
旧国鉄の根室本線の旧線にあった新内駅の跡を利用しているそうで、旧国鉄の職員さんが運営に関わっているそうで、本格的なトロッコでした。
トロッコ車両にはブレーキや本物の汽笛が付いていて、本格的に楽しめました。
線路は新内駅の下り本線にも通っています。右側のブルートレインは上り本線上にありますね。
このトロッコのすごいところは乗車コースを2周乗れるところで、二周目のポイントを切り替えるためにタブレットをかけてというのも鉄道ファンの心をくすぐるところです。
ちなみにこの場所は「狩勝信号場」でした。
トロッコを十分楽しみましたが、週末とは言え、6月なので、ほとんどお客さんがいないのが残念なところです。逆にお客さんがいないことをいいことに、運営の方にいろいろ聞けました。
このタブレットは本物だそうで、中の通票も開けて見せていただきました。
通票は一区間に列車が複数入って衝突事故が起こるのを防ぐために使うもので、タブレットはその入れ物ですね。
去年の台風で狩勝峠付近の新得側は路盤が崩れているそうですが、その手前まで入れるそうで、旧日本三大車窓の一つである大カーブ付近も車で通れるとのこと。帰るついでに行ってみようかなと思います。
売店ではいろいろなものが販売していて、古い切符も売っていて思わず買ってしまいました。
エコトロッコの隣には蒸気機関車とブルートレインが保存されていました。ミュージーアムカフェになっているようです。
ブルートレインは20系客車といわれる一番古い時代のブルートレイン客車で3両あり、以前はこの地でSLホテルを営業していた関係で、この場所に留置されています。
3両あるうちの1両はSLホテル時代に受付等で使用されていた関係で、寝台は取り払われ、今は資料室になっていました。
真ん中の1両はA寝台車で、寝台を設定していない昼の時間帯の感じで展示されていました。
この車両の端のドアの上には車両番号と「HITACHI 1958」の銘が。その当時の車両メーカーの力の入れようがわかりますね。
もう一両のほうには昼用の時間帯(右側)と夜になって寝台をセッティングした夜用(左側)の2種類で展示していました。
さすがは上級クラスのA寝台。ベッド幅が広いですね。
そして、驚いたのがこの部分!
この車両は通常のA寝台のほかに個室が付いていました
今から考えれば狭いといえば狭いですが、ベッドにも椅子にもなる優れものです。
狭いながらも機能的です。
冷房調整装置もアナログですが、当時としてはすごい装置だったのでしょうね。ほとんどの列車には冷房すらついていなかったのですから。
個室内には洗面台もついていました。このタイプは後継の車両にも引き継がれ、北斗星やトワイライトエクスプレスの個室にも使われていましたね。
今から考えればともかく、その当時の最高級個室を見ることができて大満足でした。
貴重なこの車両も一時期解体の運命にあったそうです。NPO法人が存続運動をして残したそうで今後も残していただきたく、何らかの協力したいものですね。
7へ続く。
旧国鉄の根室本線の旧線にあった新内駅の跡を利用しているそうで、旧国鉄の職員さんが運営に関わっているそうで、本格的なトロッコでした。
トロッコ車両にはブレーキや本物の汽笛が付いていて、本格的に楽しめました。
線路は新内駅の下り本線にも通っています。右側のブルートレインは上り本線上にありますね。
このトロッコのすごいところは乗車コースを2周乗れるところで、二周目のポイントを切り替えるためにタブレットをかけてというのも鉄道ファンの心をくすぐるところです。
ちなみにこの場所は「狩勝信号場」でした。
トロッコを十分楽しみましたが、週末とは言え、6月なので、ほとんどお客さんがいないのが残念なところです。逆にお客さんがいないことをいいことに、運営の方にいろいろ聞けました。
このタブレットは本物だそうで、中の通票も開けて見せていただきました。
通票は一区間に列車が複数入って衝突事故が起こるのを防ぐために使うもので、タブレットはその入れ物ですね。
去年の台風で狩勝峠付近の新得側は路盤が崩れているそうですが、その手前まで入れるそうで、旧日本三大車窓の一つである大カーブ付近も車で通れるとのこと。帰るついでに行ってみようかなと思います。
売店ではいろいろなものが販売していて、古い切符も売っていて思わず買ってしまいました。
エコトロッコの隣には蒸気機関車とブルートレインが保存されていました。ミュージーアムカフェになっているようです。
ブルートレインは20系客車といわれる一番古い時代のブルートレイン客車で3両あり、以前はこの地でSLホテルを営業していた関係で、この場所に留置されています。
3両あるうちの1両はSLホテル時代に受付等で使用されていた関係で、寝台は取り払われ、今は資料室になっていました。
真ん中の1両はA寝台車で、寝台を設定していない昼の時間帯の感じで展示されていました。
この車両の端のドアの上には車両番号と「HITACHI 1958」の銘が。その当時の車両メーカーの力の入れようがわかりますね。
もう一両のほうには昼用の時間帯(右側)と夜になって寝台をセッティングした夜用(左側)の2種類で展示していました。
さすがは上級クラスのA寝台。ベッド幅が広いですね。
そして、驚いたのがこの部分!
この車両は通常のA寝台のほかに個室が付いていました
今から考えれば狭いといえば狭いですが、ベッドにも椅子にもなる優れものです。
狭いながらも機能的です。
冷房調整装置もアナログですが、当時としてはすごい装置だったのでしょうね。ほとんどの列車には冷房すらついていなかったのですから。
個室内には洗面台もついていました。このタイプは後継の車両にも引き継がれ、北斗星やトワイライトエクスプレスの個室にも使われていましたね。
今から考えればともかく、その当時の最高級個室を見ることができて大満足でした。
貴重なこの車両も一時期解体の運命にあったそうです。NPO法人が存続運動をして残したそうで今後も残していただきたく、何らかの協力したいものですね。
7へ続く。