2023年07月07日
2023年06月30日
2023年06月23日
下地島から帰る。
宮古島も何度も来ていて、2回目の観光をしたいところもなく、のんびり過ごすことにします。宿でバイクを借りて、まずは川満漁港に行って、東屋で海を眺めながらのんびり寝ころびます。
そして宮古島の大名所、前浜ビーチへ来ました。ビーチパラソルやバナナボートなどの海水浴用品のレンタルテントや、海水浴客など、結構な人がいました。まあ夏の江の島を考えれば、大したことはありませんが。
わざわざ混んでいる前浜ビーチに行ったのは、前浜の端の東急リゾートホテル前の砂浜が削れているという話を聞いたからでした。確かに見に行ったら、ホテル前の部分だけ、砂浜が削れていて、海岸線が後退していました。ホテルにとっては一大事ですが、これは伊良部大橋の完成の影響で海流が変わったからでしょうかね?
来間大橋を渡って、来間島を1周します。のどかだった来間島も、島の一番奥にリゾートコテージができていて、だいぶ観光化していました。事故も多いらしく、自治会が注意喚起の看板を立てていました。
宮古島へ戻り、伊良部大橋へ。その途中で「久松五勇士顕彰碑」に寄ります。
1905年の日露戦争を決定的な勝利に導いた日本海海戦。日本海軍はロシアから回航されてきたロシアバルチック艦隊を撃滅するため、その居場所を探していました。ちょうど宮古島行きの船が海上でバルチック艦隊と遭遇し、急いで宮古島へ。当時宮古島には無線がなかったため、無線設備のあった石垣島まで16時間舟をこいで、そして石垣島内を2時間走って八重山の電信局へ行き、「バルチック艦隊見ゆ」打電したとのこと。ただ、その1時間前に哨戒船「信濃丸」からの「敵艦見ユ」という第1報が届いており、彼らの壮挙は意味がなかったことになってしまったとのこと。ただ後年、この話が戦意高揚の一環で取り上げられて有名になり、戦後も宮古島では郷土の英雄としてとらえられているとのことで顕彰碑が建ったそうです。ただ現実は5月22日にバルチック艦隊を目撃、25日に宮古島に着き、26日の6時に五勇士が宮古を出て、石垣について、24時頃、つまり27日の午前0時頃に八重山電信局に着き、打電。信濃丸の打電が午前4時45分とのことで、こっちのほうが早い気がしますが、27日昼に日本海海戦。今でも電文は防衛省にあるそうで電文を受理したのは1日遅れの28日10時とのこと。民間の電信なので、あちこち経由したのでしょうね。今考えれば、なんだ?という顛末ですが、当時は軍艦にも無線が設置されたかどうか位の時期だったとのことで、これはやむを得ないことなんでしょうね。
そして、伊良部大橋へ。
橋手前にこんな看板が。
ここはヤドカリの通り道だそうで、ヤドカリ用の道も作ってあるとのこと。
伊良部大橋が完成してから初めて通ります。伊良部大橋は2015年に開通し、全長3540メートル。日本で一番長い無料で通れる橋とのこと。(日本全部では4番目)気持ちの良い橋でした。
そして、伊良部島牧山展望台に行って、橋を眺めます。宮古島近海は海がきれいですね。
宮古島へ戻って、バイクを返却し、バスで下地島空港へ。宮古島市街地から30分ほどでした。
下地島空港はもともとパイロット養成用の訓練飛行場で以前はタッチ&ゴーを見ることができる空港として有名でしたが、現在はJAL、ANAともに海外へ移転していて、ここでは他の航空会社などの訓練で使われているそうです。1980年から94年までは那覇からの定期便があったそうですが、2019年から定期便が再開され、スカイマークとジェットスターが就航しています。
再就航に伴って、ターミナルビルが建てなおされ、きれいになりました。ほかの空港では見られないつくりになっていて、おしゃれです。
バイクを返すのがギリギリになったので、食事が買えず、搭乗待合室のレストランでテイクアウトのタコライスを購入。まあ空港料金ですね。やはり地元のものは地元で買いたいものです。
搭乗はブリッジではなく、駐機場まで歩いての登場です。数年前に行ったサイパンの空港を思い出しました。
スカイマーク618便は17時13分、下地島空港を出発。伊良部島の北側を回って、一路羽田へ向かいます。タコライスをいただいて、のんびりと旅を振り返りながら帰りました。
≪終わり≫
そして宮古島の大名所、前浜ビーチへ来ました。ビーチパラソルやバナナボートなどの海水浴用品のレンタルテントや、海水浴客など、結構な人がいました。まあ夏の江の島を考えれば、大したことはありませんが。
わざわざ混んでいる前浜ビーチに行ったのは、前浜の端の東急リゾートホテル前の砂浜が削れているという話を聞いたからでした。確かに見に行ったら、ホテル前の部分だけ、砂浜が削れていて、海岸線が後退していました。ホテルにとっては一大事ですが、これは伊良部大橋の完成の影響で海流が変わったからでしょうかね?
来間大橋を渡って、来間島を1周します。のどかだった来間島も、島の一番奥にリゾートコテージができていて、だいぶ観光化していました。事故も多いらしく、自治会が注意喚起の看板を立てていました。
宮古島へ戻り、伊良部大橋へ。その途中で「久松五勇士顕彰碑」に寄ります。
1905年の日露戦争を決定的な勝利に導いた日本海海戦。日本海軍はロシアから回航されてきたロシアバルチック艦隊を撃滅するため、その居場所を探していました。ちょうど宮古島行きの船が海上でバルチック艦隊と遭遇し、急いで宮古島へ。当時宮古島には無線がなかったため、無線設備のあった石垣島まで16時間舟をこいで、そして石垣島内を2時間走って八重山の電信局へ行き、「バルチック艦隊見ゆ」打電したとのこと。ただ、その1時間前に哨戒船「信濃丸」からの「敵艦見ユ」という第1報が届いており、彼らの壮挙は意味がなかったことになってしまったとのこと。ただ後年、この話が戦意高揚の一環で取り上げられて有名になり、戦後も宮古島では郷土の英雄としてとらえられているとのことで顕彰碑が建ったそうです。ただ現実は5月22日にバルチック艦隊を目撃、25日に宮古島に着き、26日の6時に五勇士が宮古を出て、石垣について、24時頃、つまり27日の午前0時頃に八重山電信局に着き、打電。信濃丸の打電が午前4時45分とのことで、こっちのほうが早い気がしますが、27日昼に日本海海戦。今でも電文は防衛省にあるそうで電文を受理したのは1日遅れの28日10時とのこと。民間の電信なので、あちこち経由したのでしょうね。今考えれば、なんだ?という顛末ですが、当時は軍艦にも無線が設置されたかどうか位の時期だったとのことで、これはやむを得ないことなんでしょうね。
そして、伊良部大橋へ。
橋手前にこんな看板が。
ここはヤドカリの通り道だそうで、ヤドカリ用の道も作ってあるとのこと。
伊良部大橋が完成してから初めて通ります。伊良部大橋は2015年に開通し、全長3540メートル。日本で一番長い無料で通れる橋とのこと。(日本全部では4番目)気持ちの良い橋でした。
そして、伊良部島牧山展望台に行って、橋を眺めます。宮古島近海は海がきれいですね。
宮古島へ戻って、バイクを返却し、バスで下地島空港へ。宮古島市街地から30分ほどでした。
下地島空港はもともとパイロット養成用の訓練飛行場で以前はタッチ&ゴーを見ることができる空港として有名でしたが、現在はJAL、ANAともに海外へ移転していて、ここでは他の航空会社などの訓練で使われているそうです。1980年から94年までは那覇からの定期便があったそうですが、2019年から定期便が再開され、スカイマークとジェットスターが就航しています。
再就航に伴って、ターミナルビルが建てなおされ、きれいになりました。ほかの空港では見られないつくりになっていて、おしゃれです。
バイクを返すのがギリギリになったので、食事が買えず、搭乗待合室のレストランでテイクアウトのタコライスを購入。まあ空港料金ですね。やはり地元のものは地元で買いたいものです。
搭乗はブリッジではなく、駐機場まで歩いての登場です。数年前に行ったサイパンの空港を思い出しました。
スカイマーク618便は17時13分、下地島空港を出発。伊良部島の北側を回って、一路羽田へ向かいます。タコライスをいただいて、のんびりと旅を振り返りながら帰りました。
≪終わり≫
2023年06月16日
竹富島から宮古島へ
石垣島へ戻ってきました。夜の便で宮古島へ飛ぶので、少し時間があります。そういえば、御船印の収集できるなということで、八重山観光フェリーの窓口で竹富島行きの切符を買って御船印を収集しました。御船印は最近船関係の会社がやっている御朱印のようなもので、ついでがあれば集めようかと思っているのですが、ここは波照間行きで乗った安栄観光と八重山観光フェリーがやっていて、安栄観光は御船印のみを購入できましたが、八重山観光フェリーはきっぷを購入しないと御船印を購入できないそうで、時間に限りもあり、一番安い竹富島行きの切符を買って御船印を購入したのでした。買って時間がある以上、竹富島へ行こうということで、売店で弁当を買って、八重山観光フェリー「やいま」に乗船します。
「やいま」は2階のデッキにも椅子があって、海を眺めながら12分の優雅な航海を楽しみました。八重山観光フェリーと安栄観光はなぜか同じ時間帯に便を走らせていて、安栄側の船を見たら、さっき波照間便で乗っていた「第38あんえい号」でした。
フェリーがついて乗降が終わり、船が出ていくと、港は静かになります。さてとベンチで弁当をつつきます。朝以来の食事です。実質初食事ですね。そして既訪ですが、腹ごなしに竹富郵便局へ。
竹富島の景色にあった建物で、一時期は郵便局が配るカレンダーの表紙になっているくらい有名な郵便局だった記憶があります。最近はわかりませんが。横を覗くと今は無くなった時間外窓口の跡が残っていました。
石垣島へ戻って、八重山郵便局で風景印をもらい、昨日飲んだ泡盛「玉の露」を自分用に購入し、A&Wで夕食用のハンバーガーを購入します。そしてバスで石垣空港へ。空港のロビーでハンバーガーを食して宮古島へ。
もともとはもう一日、石垣島に居ようかと思っていて、翌日の成田行きピーチ便を購入していたのですが、よく考えてみると、石垣島ですることがないことに気づき、どうせなら、新しく開校した下地島空港から帰ろうということで、宮古島で1泊することにして、宮古島行きの飛行機をマイルで取りました。
どうも沖縄らしく、宮古島行きの飛行機なのにゲートの行先表示には1本前の与那国行きの表示が。表示と飛行機の座席チェックのシステムとが連動していないんですかね?
宮古島行きの飛行機も駐機場まで歩いてのプロペラ機でした。
宮古島への機中は夕陽が見え、良い感じでした。
宮古島で常連の宿で1泊。
2023年06月09日
最南端へ
3日目、本当は未訪だった新城島へ行こうとツアーに申し込んでいたのですが、催行は2人からで、私以外申し込みがなく、不催行になってしまいました。新城島にはツアーでしか行けないので、今回はあきらめ、これまた久しぶりの波照間島へ向かいました。最西端にも行ったので、最南端にも行こうかという感じでしょうか?
離島ターミナルから乗ったのは「ぱいじま2」。この船になってから初めて波照間島へ行きます。外から見る分には双胴船で安定していて揺れないのではないかと思っていましたが、大間違い!石垣港出たら、揺れること揺れること、そんなことは想定していなかったので、前夜に痛飲し、寝不足で、その上、朝食を乗船後に食べた私は当然のことながらトイレにこもらざるえなくなりました。確か、石垣発なら、後半が揺れるはずで、前半はそんなことないはずなのにおかしいなと思ったら、以前の船では途中までは、波の穏やかな多島海の中を通っていったはずなのに、新船は竹富島の東から外海に出てました。大型船だから多島海の中は通れないのですかね?おまけに「ぱいじま2」は以前の船では出られたデッキに一切出られなくなりました。昔乗った時、1月の荒波の中、揺れながらデッキに居て船酔いを治めていたころが懐かしい!
1時間半かかって波照間港へ。あれ、こんなに時間かかったかなと思ったら、以前の1,5倍もかかっているのでした。これで4070円。2490円のフェリーも2時間で行くので、いいとこなしの「ぱいじま2」です。まあ乗船人員は増えたので、波照間島の観光には良いのかもしれませんが、個人的にはもういいかな?と思いました。次回来ることがあれば、フェリーと就航してほしい飛行機で来たいものです。
以前は1週間滞在したこともある波照間島でしたが、今回は4時間弱の滞在なので、さくっとレンタバイクでまわります。与那国と違って、客引きが何人もいるので、良さそうなおじぃに声をかけ、バイクを借ります。バイクは集落内なので車で送ってもらいました。ぱいじま2の話をして、初めて乗ったんですと言ったらずいぶん久しぶりに来たんだねと笑われました。後日調べてみたら、2017年から就航したので、もう6年選手ですね。ちなみに「ぱいじま2」は新船ではなく、瀬戸内海の松山―門司航路で使用されていて、就航は1998年。途中9年の係船ブランクがあるといういわくつきの船なのでした。波照間航路に来る際も、エンジン減らして速度を落としたり、波照間港の浮桟橋が使えず、別のところに新設したりとなかなかの手間がかかったとのこと。
バイクを借りて、島一周です。殆どのところは行き尽くしているので、めぼしいところを回ります。まずは見かけた波照間島灯台へ。
海の端にあるわけではなく、島の高台にありました。昭和34年初点とのこと。
そして日本最南端の碑へ。
最西端と違ってとがっている場所ではなく、なんとなく平べったい最南端なのでのんびりした所です。以前はそんなに人が来るところではなく、一人で過ごすことが多かったのですが、今回は人がひっきりなしに訪れていて、ビックリですね。「ぱいじま2」の効果でしょうね。確実に日帰り観光客の人数は増えたようです。
星空観測タワーは老朽化で閉鎖されたとのこと。なかなか修復は難しいのかもしれません。これも時代ですかね?
そして波照間空港へ。
以前は琉球エアコミュ―ターが9人乗り?のアイランダーを飛ばしていましたが、飛行機の引退とともに廃止になり、その後、第一航空の飛行機が就航すると言いつつ、なかなか就航しない、するする詐欺のような状態が繰り返されていますが、せっかく新築した建物が未使用なのは悲しいところです。
中心部に戻り、小中学校の前にあたらしい建物が。
これは郵便局ですな。移転情報は聞いていませんでしたが移転するようです。なかなか立派ですが、私は古いほうが好きですね。古いほう、いや現波照間郵便局へ。
聞けば7月24日から新局へ移転するそうです。便利にはなりそうですが、名残惜しいですね。
さて、波照間島といえば幻の泡盛「泡波」。島でしか作っておらず、ほぼ手に入らないために幻の泡盛と言われ、以前は3合瓶や1升瓶などは那覇では1万円前後、東京に行けばその数倍の値が付くプレミア酒でした。島では売店で売られていて、だいたいミニボトルしかなかったものでした。今回、直営の売店ができていて、ビールなどと一緒に売られていました。まあ3合瓶などのお土産にしたいものは売り切れていましたが、ちょっとびっくりでした。
そしてニシハマヘ。日本有数のきれいな砂浜だと思います。ここは日帰り客の目当ての場所なので、結構な人がいました。ここで今年初の海水浴をして、時間切れ。バイクを返して港へ戻ります。送ってくれたおじぃに泡波の話をしたら、1升瓶などは瓶自体が少ないので、なかなか出回らないそう。相変わらずの稀少品のようです。
帰りの船は以前の中型船。第38あんえいでした。
行きの船酔いで懲りたので、おとなしく後方座席に座っていました。西表島大原港に寄って、行きと変わらず1時間半で石垣港に戻ってきました。でも大原港からは多島海の中を通ったので、そんなに揺れず、助かりました。
離島ターミナルから乗ったのは「ぱいじま2」。この船になってから初めて波照間島へ行きます。外から見る分には双胴船で安定していて揺れないのではないかと思っていましたが、大間違い!石垣港出たら、揺れること揺れること、そんなことは想定していなかったので、前夜に痛飲し、寝不足で、その上、朝食を乗船後に食べた私は当然のことながらトイレにこもらざるえなくなりました。確か、石垣発なら、後半が揺れるはずで、前半はそんなことないはずなのにおかしいなと思ったら、以前の船では途中までは、波の穏やかな多島海の中を通っていったはずなのに、新船は竹富島の東から外海に出てました。大型船だから多島海の中は通れないのですかね?おまけに「ぱいじま2」は以前の船では出られたデッキに一切出られなくなりました。昔乗った時、1月の荒波の中、揺れながらデッキに居て船酔いを治めていたころが懐かしい!
1時間半かかって波照間港へ。あれ、こんなに時間かかったかなと思ったら、以前の1,5倍もかかっているのでした。これで4070円。2490円のフェリーも2時間で行くので、いいとこなしの「ぱいじま2」です。まあ乗船人員は増えたので、波照間島の観光には良いのかもしれませんが、個人的にはもういいかな?と思いました。次回来ることがあれば、フェリーと就航してほしい飛行機で来たいものです。
以前は1週間滞在したこともある波照間島でしたが、今回は4時間弱の滞在なので、さくっとレンタバイクでまわります。与那国と違って、客引きが何人もいるので、良さそうなおじぃに声をかけ、バイクを借ります。バイクは集落内なので車で送ってもらいました。ぱいじま2の話をして、初めて乗ったんですと言ったらずいぶん久しぶりに来たんだねと笑われました。後日調べてみたら、2017年から就航したので、もう6年選手ですね。ちなみに「ぱいじま2」は新船ではなく、瀬戸内海の松山―門司航路で使用されていて、就航は1998年。途中9年の係船ブランクがあるといういわくつきの船なのでした。波照間航路に来る際も、エンジン減らして速度を落としたり、波照間港の浮桟橋が使えず、別のところに新設したりとなかなかの手間がかかったとのこと。
バイクを借りて、島一周です。殆どのところは行き尽くしているので、めぼしいところを回ります。まずは見かけた波照間島灯台へ。
海の端にあるわけではなく、島の高台にありました。昭和34年初点とのこと。
そして日本最南端の碑へ。
最西端と違ってとがっている場所ではなく、なんとなく平べったい最南端なのでのんびりした所です。以前はそんなに人が来るところではなく、一人で過ごすことが多かったのですが、今回は人がひっきりなしに訪れていて、ビックリですね。「ぱいじま2」の効果でしょうね。確実に日帰り観光客の人数は増えたようです。
星空観測タワーは老朽化で閉鎖されたとのこと。なかなか修復は難しいのかもしれません。これも時代ですかね?
そして波照間空港へ。
以前は琉球エアコミュ―ターが9人乗り?のアイランダーを飛ばしていましたが、飛行機の引退とともに廃止になり、その後、第一航空の飛行機が就航すると言いつつ、なかなか就航しない、するする詐欺のような状態が繰り返されていますが、せっかく新築した建物が未使用なのは悲しいところです。
中心部に戻り、小中学校の前にあたらしい建物が。
これは郵便局ですな。移転情報は聞いていませんでしたが移転するようです。なかなか立派ですが、私は古いほうが好きですね。古いほう、いや現波照間郵便局へ。
聞けば7月24日から新局へ移転するそうです。便利にはなりそうですが、名残惜しいですね。
さて、波照間島といえば幻の泡盛「泡波」。島でしか作っておらず、ほぼ手に入らないために幻の泡盛と言われ、以前は3合瓶や1升瓶などは那覇では1万円前後、東京に行けばその数倍の値が付くプレミア酒でした。島では売店で売られていて、だいたいミニボトルしかなかったものでした。今回、直営の売店ができていて、ビールなどと一緒に売られていました。まあ3合瓶などのお土産にしたいものは売り切れていましたが、ちょっとびっくりでした。
そしてニシハマヘ。日本有数のきれいな砂浜だと思います。ここは日帰り客の目当ての場所なので、結構な人がいました。ここで今年初の海水浴をして、時間切れ。バイクを返して港へ戻ります。送ってくれたおじぃに泡波の話をしたら、1升瓶などは瓶自体が少ないので、なかなか出回らないそう。相変わらずの稀少品のようです。
帰りの船は以前の中型船。第38あんえいでした。
行きの船酔いで懲りたので、おとなしく後方座席に座っていました。西表島大原港に寄って、行きと変わらず1時間半で石垣港に戻ってきました。でも大原港からは多島海の中を通ったので、そんなに揺れず、助かりました。
2023年06月02日
与那国へ。
2日目は朝7時台の飛行機で与那国へ。ゆいレールで那覇空港に出ると、まだ6時台。お土産屋等は締まっていましたが、保安検査場が長蛇の列。ちょうど7時台に各地に出発する便が集中しているのと、要員が少ないからでしょうか?各地の空港で起きていると噂には聞いていたけれど実際に目にしたのは初でした。
与那国行きの飛行機はバス移動で駐機場へ。乗ってしまえば1時間20分で最西端の島、与那国島へ到着します。早いものです。JALのセールで税金等込み14050円で来れたのは安いですね。羽田―石垣―与那国のほうが若干安いはずですが、羽田―石垣の本数が1日2本程度であることを考えると、予約のしやすさで考えればこれでもお得なはずです。機内販売でボールペンを購入したら、いろいろといただけました。
前回来たのが2014年前なので、約9年ぶりの与那国ですが、着いたはいいけれど、現地に足で借りようと思っていたレンタバイクがない!バイク屋に電話したら、空港に迎えに行けないので、店まで来られるのであれば貸せますとのこと。レンタカー屋もありましたが、予約でいっぱいなので、貸せないとのことで2キロほど歩いて祖納の集落まで借りに行きました。9年前に比べて、自衛隊の基地ができ、ホテルもできたそうで、あと最近では与那国でロケした「Drコト―診療所」の映画も公開されたので人気があるのかもしれません。
めでたくバイクを借りて、まずは「DiDi与那国交流館」へ。DiDi(でぃーでぃー)は与那国の方言で「行こう」という意味だとのこと。隣の島、台湾との交流の歴史を中心に島の歴史についての展示がなされていました。資料なども充実していました。
バイクに乗り、東の果て、東崎へ。在来馬の一種「与那国馬」がいました。道路に堂々といるので、恐る恐る横を通ります。
東崎。この先には西表島がありますが、見えないですね。
立神岩を眺めつついると、観光バスがやってきました。団体旅行の人たちでしょうか?ホテルもあるのだから、当然と言えば当然ですが、10年前は見かけなかったので不思議な感じです。
Drコトーのロケセットは前回眺めたので、そのままスルーし、島の南側を西へ。今回の旅の目的の一つへやってきました。それはここ。
日本最西端の郵便局、久部良簡易郵便局です。9年前に訪問した時は与那国郵便局の久部良分室でした。昔は郵便局の分室はたくさんありましたが、日本郵便は分室をなくす方向に動いていたようで、訪問後すぐに簡易郵便局になり、直営から委託に変わったのでした。以前沖縄中を旅した時に、沖縄の郵便局全局完訪を達成したことがありましたが、そのタイトルを防衛しました。局舎は分室時代と変わっておらず、局員さんも親切で良い記念になりました。
さて、昼時、前回はカレーが美味しいと聞いた「ゆきさんち」へ行きましたが、閉店してしまったとのことで、局員さんに道を聞いて、久部良漁港にある漁港食堂へ入りました。前回にはなかった食堂でカジキの刺身定食をいただきました。カジキマグロで有名な久部良漁港ですが、なかなか現地で食べられなかったので、うれしい限りです。各種電子マネーも使用できてビックリです。
Drコト―が有名になる前の与那国を舞台にした映画といえば1990年制作の記録映画「老人と海」でヘミングウェイの小説をヒントにしたカジキを追う与那国の老漁師を追った記録映画が有名でした。そのモニュメントは船と一緒に久部良の施設にあります。
そしていよいよ、最西端の西崎へ。今回も台湾は見えませんでしたが、久しぶりの最西端でうれしくなりました。でももう最後かな?なんて思いもよぎりつつ、見えない台湾の方向を眺めておりました。
そろそろ、時間切れ、祖納へ戻り、バイクを返却。帰りは路線バスで空港まで行こうかと思いましたが、送迎料500円で空港まで送ってもらえるとのことでお願いしました。送迎中に話を聞くと、今は人が足りないそうで、島に建ったホテルはなんと休業中。店もあまりやっていないそうです。特に困っているのは夕食だそうで、どこの居酒屋も飲食店も予約が取れず、宿泊客がカップラーメンをすすることもあるそう。コロナ禍で年配の方がやめてしまった影響のようで、これは他地域でもよくある話です。これから離島は大変かもしれません。
早く着いたので、空港内の食堂で長命草ケーキセットを食べていたら、遅延の放送が。ちょうどこの日、沖縄本島では豪雨に見舞われ、飛行機が那覇空港から出発できないとのこと。てっきり石垣から飛行機が来るかと思っていたので意外でした。そういえば初めて来た2003年の時は飛行機が欠航して1泊延泊した記憶もあるので、文字通り、島に渡るのが難しい「渡難」の島だなあと思います。(実際は俗説だそうですが)、本当は石垣島にわたってから、他の離島に行こうかと思っていましたが、時間が微妙なので石垣泊にしましたが、正解でした。この遅れだと予約したのに行けなかったかもしれません。
1時間遅れとのことなので、時間をつぶしてせっかく与那国に来たので、アルコール分60度という特例の泡盛「どなん」買おうかと思っていましたが、出発直前になっても店は開かず、変えずしまいで出発することになりました。以前製造元で購入したこともあるし、那覇でも東京でも買えますが、残念でした。
飛行機に乗ってしまえば、30分、あっという間に石垣空港です。離島ターミナルによって、明日の予定を考えつつ、久しぶりのゲストハウスに宿泊し、これまた10年ぶりに再会した石垣の友人と酒を夜遅くまで酌み交わしました。
与那国行きの飛行機はバス移動で駐機場へ。乗ってしまえば1時間20分で最西端の島、与那国島へ到着します。早いものです。JALのセールで税金等込み14050円で来れたのは安いですね。羽田―石垣―与那国のほうが若干安いはずですが、羽田―石垣の本数が1日2本程度であることを考えると、予約のしやすさで考えればこれでもお得なはずです。機内販売でボールペンを購入したら、いろいろといただけました。
前回来たのが2014年前なので、約9年ぶりの与那国ですが、着いたはいいけれど、現地に足で借りようと思っていたレンタバイクがない!バイク屋に電話したら、空港に迎えに行けないので、店まで来られるのであれば貸せますとのこと。レンタカー屋もありましたが、予約でいっぱいなので、貸せないとのことで2キロほど歩いて祖納の集落まで借りに行きました。9年前に比べて、自衛隊の基地ができ、ホテルもできたそうで、あと最近では与那国でロケした「Drコト―診療所」の映画も公開されたので人気があるのかもしれません。
めでたくバイクを借りて、まずは「DiDi与那国交流館」へ。DiDi(でぃーでぃー)は与那国の方言で「行こう」という意味だとのこと。隣の島、台湾との交流の歴史を中心に島の歴史についての展示がなされていました。資料なども充実していました。
バイクに乗り、東の果て、東崎へ。在来馬の一種「与那国馬」がいました。道路に堂々といるので、恐る恐る横を通ります。
東崎。この先には西表島がありますが、見えないですね。
立神岩を眺めつついると、観光バスがやってきました。団体旅行の人たちでしょうか?ホテルもあるのだから、当然と言えば当然ですが、10年前は見かけなかったので不思議な感じです。
Drコトーのロケセットは前回眺めたので、そのままスルーし、島の南側を西へ。今回の旅の目的の一つへやってきました。それはここ。
日本最西端の郵便局、久部良簡易郵便局です。9年前に訪問した時は与那国郵便局の久部良分室でした。昔は郵便局の分室はたくさんありましたが、日本郵便は分室をなくす方向に動いていたようで、訪問後すぐに簡易郵便局になり、直営から委託に変わったのでした。以前沖縄中を旅した時に、沖縄の郵便局全局完訪を達成したことがありましたが、そのタイトルを防衛しました。局舎は分室時代と変わっておらず、局員さんも親切で良い記念になりました。
さて、昼時、前回はカレーが美味しいと聞いた「ゆきさんち」へ行きましたが、閉店してしまったとのことで、局員さんに道を聞いて、久部良漁港にある漁港食堂へ入りました。前回にはなかった食堂でカジキの刺身定食をいただきました。カジキマグロで有名な久部良漁港ですが、なかなか現地で食べられなかったので、うれしい限りです。各種電子マネーも使用できてビックリです。
Drコト―が有名になる前の与那国を舞台にした映画といえば1990年制作の記録映画「老人と海」でヘミングウェイの小説をヒントにしたカジキを追う与那国の老漁師を追った記録映画が有名でした。そのモニュメントは船と一緒に久部良の施設にあります。
そしていよいよ、最西端の西崎へ。今回も台湾は見えませんでしたが、久しぶりの最西端でうれしくなりました。でももう最後かな?なんて思いもよぎりつつ、見えない台湾の方向を眺めておりました。
そろそろ、時間切れ、祖納へ戻り、バイクを返却。帰りは路線バスで空港まで行こうかと思いましたが、送迎料500円で空港まで送ってもらえるとのことでお願いしました。送迎中に話を聞くと、今は人が足りないそうで、島に建ったホテルはなんと休業中。店もあまりやっていないそうです。特に困っているのは夕食だそうで、どこの居酒屋も飲食店も予約が取れず、宿泊客がカップラーメンをすすることもあるそう。コロナ禍で年配の方がやめてしまった影響のようで、これは他地域でもよくある話です。これから離島は大変かもしれません。
早く着いたので、空港内の食堂で長命草ケーキセットを食べていたら、遅延の放送が。ちょうどこの日、沖縄本島では豪雨に見舞われ、飛行機が那覇空港から出発できないとのこと。てっきり石垣から飛行機が来るかと思っていたので意外でした。そういえば初めて来た2003年の時は飛行機が欠航して1泊延泊した記憶もあるので、文字通り、島に渡るのが難しい「渡難」の島だなあと思います。(実際は俗説だそうですが)、本当は石垣島にわたってから、他の離島に行こうかと思っていましたが、時間が微妙なので石垣泊にしましたが、正解でした。この遅れだと予約したのに行けなかったかもしれません。
1時間遅れとのことなので、時間をつぶしてせっかく与那国に来たので、アルコール分60度という特例の泡盛「どなん」買おうかと思っていましたが、出発直前になっても店は開かず、変えずしまいで出発することになりました。以前製造元で購入したこともあるし、那覇でも東京でも買えますが、残念でした。
飛行機に乗ってしまえば、30分、あっという間に石垣空港です。離島ターミナルによって、明日の予定を考えつつ、久しぶりのゲストハウスに宿泊し、これまた10年ぶりに再会した石垣の友人と酒を夜遅くまで酌み交わしました。
2023年05月26日
JALセールで那覇へ。
JALのセールを利用して久しぶりに沖縄の離島を旅してきました。3月からセールが行われていて、いろいろ話題になりましたが、実際、深夜寝ずに頑張ってチケットをとっていると、なんとなく違和感があり、なぜかと考えると、そんなに安くないんですね。四国なんかだと、空いている時期の1か月前ならば、片道500円しか変わらず、深夜2時まで起きているのは馬鹿馬鹿しいくらいです。ねらい目は週末の沖縄、石垣、宮古線ですが、予約できる頃には満席になってしまいますね。いろいろ考えた挙句、平日の羽田―那覇―与那国―石垣―羽田が良いだろうと言うことで行ってきました。まあ石垣―羽田は取れず、ピーチになりましたが。ちなみに4月からのJALの運賃制度の改定は悪いほうばかりですが、単純に離島往復の乗り継ぎ便ではだいぶ安くなりましたね。ただあちこち寄るのは難しいので、周遊型の旅行にはセールがお得です。
初日は昼の便で那覇へ。平日の昼便は那覇便でもセール運賃で取れました。
那覇空港に着いたのは14時。レンタカーを借りても仕方ないので、ゆいレールの24時間券を買って、那覇市内の郵便局巡りにあてました。もう10年以上前に沖縄中を旅した時に観光地とともに郵便局巡りをしたことがありましたが、それから月日も経ったのと、最近沖縄の郵便局で記念押印用の風景印の使用開始したところが増えたので、時間つぶしを兼ねて回りました。
まずは県庁前駅で降りて、美栄橋局へ。貯金窓口はゆうちょ銀行になっていましたね。そして沖縄県庁へ。県庁内郵便局で風景印使用開始とのことで久しぶりに訪問しました。
ロビーでは首里城地下の旧日本軍第32軍司令部壕の保存公開を求める展示がされてました。太平洋戦争時に首里城の下に壕が掘られて、司令部がおかれていたのですが、その保存、公開、活用方法が問題になっているそうで、老朽化して公開するのは難しそうです。それを整備して耐震化するのも、何か違うような気もします。デジタル技術でVR公開みたいなところが落としどころでしょうか?いずれにせよ、首里城の建物が戦災にあった原因の一つでもある沖縄戦の一つのモニュメントなので、何らかの公開等はしてほしいものです。
その後、美栄橋駅で那覇久茂地郵便局、おもろまち駅で真嘉比郵便局、牧志駅で牧志郵便局とまわりました。ここ数年で那覇中心街、国際通り周辺は大変化を遂げてますね。
沖映通りを歩いてD-nahaへ。旧ダイエー那覇店でしたが、今はいろいろ入っていて、中のジュンク堂書店で沖縄本を購入し、散策終わり。
夕方から、コロナ前から3年ぶりくらいに那覇の友人と飲みました。
2へ続く
初日は昼の便で那覇へ。平日の昼便は那覇便でもセール運賃で取れました。
那覇空港に着いたのは14時。レンタカーを借りても仕方ないので、ゆいレールの24時間券を買って、那覇市内の郵便局巡りにあてました。もう10年以上前に沖縄中を旅した時に観光地とともに郵便局巡りをしたことがありましたが、それから月日も経ったのと、最近沖縄の郵便局で記念押印用の風景印の使用開始したところが増えたので、時間つぶしを兼ねて回りました。
まずは県庁前駅で降りて、美栄橋局へ。貯金窓口はゆうちょ銀行になっていましたね。そして沖縄県庁へ。県庁内郵便局で風景印使用開始とのことで久しぶりに訪問しました。
ロビーでは首里城地下の旧日本軍第32軍司令部壕の保存公開を求める展示がされてました。太平洋戦争時に首里城の下に壕が掘られて、司令部がおかれていたのですが、その保存、公開、活用方法が問題になっているそうで、老朽化して公開するのは難しそうです。それを整備して耐震化するのも、何か違うような気もします。デジタル技術でVR公開みたいなところが落としどころでしょうか?いずれにせよ、首里城の建物が戦災にあった原因の一つでもある沖縄戦の一つのモニュメントなので、何らかの公開等はしてほしいものです。
その後、美栄橋駅で那覇久茂地郵便局、おもろまち駅で真嘉比郵便局、牧志駅で牧志郵便局とまわりました。ここ数年で那覇中心街、国際通り周辺は大変化を遂げてますね。
沖映通りを歩いてD-nahaへ。旧ダイエー那覇店でしたが、今はいろいろ入っていて、中のジュンク堂書店で沖縄本を購入し、散策終わり。
夕方から、コロナ前から3年ぶりくらいに那覇の友人と飲みました。
2へ続く
2023年05月19日
再開のお知らせ
お久しぶりです。
長い間休載しておりましたが、ようやく再開することにしました。
しばらくは週一回をめどにしての不定期更新です。今後、更新頻度を上げていきたいと思います。
よろしくお願いします。
長い間休載しておりましたが、ようやく再開することにしました。
しばらくは週一回をめどにしての不定期更新です。今後、更新頻度を上げていきたいと思います。
よろしくお願いします。
2019年10月16日
2019年09月27日
たそがれの城~E257系で行く、山梨城巡りの旅6~
新府城へ着きました。駐車場から城内へ入ります。文化庁などが発掘調査を行っているようで、説明看板があちらこちらにありました。
ちらほらと雪が残り、また雲が出てきて肌寒い気候になりましたが、木々が少ないだけ、城巡りにはうってつけの時期でもあります。
新府城は城の西側が釜無川を望む深い崖になっていて、天然の要害になっていました。
井戸跡や木橋の跡を見ながら、二の丸から本丸へと向かいます。
本丸は広くとられており、ここに御殿があったのでしょう。
地図を見ると、かなりの城であったことがわかります。8年しか存在していなかった城だからこそ、遺構が残ったともいえ、発掘調査の成果が説明されていました。
最初の城主、武田勝頼は天正9年(1581年)12月24日に甲府の武田氏館からこの新府城へ移ったそうです。ただ間もなく翌天正10年(1582年)2月には織田信長の甲州征伐が始まり、各地で武田、織田の戦いが続いたそうです。そして劣勢の武田勝頼は3月3日、この新府城に火を放ち、逃亡しましたが、3月11日家臣に裏切られ、自刃することになりました。在城は3か月、実際は出陣していた時期も考えれば、そんなにはこの城にはいなかったのかもしれません。いろいろな意味で非運な武将であったのかもしれません。
黄昏時の城跡を歩きながら、悲運の武将に思いをはせながら城巡りを終えました。
甲府までレンタカーをすっ飛ばし、返却。帰りの特急「かいじ」号は新型のE353系でした。
4つの城を巡って、戦国、安土桃山時代の甲府国の主な城を巡れました。
E257系で行く、山梨城巡りの旅 終了。
ちらほらと雪が残り、また雲が出てきて肌寒い気候になりましたが、木々が少ないだけ、城巡りにはうってつけの時期でもあります。
新府城は城の西側が釜無川を望む深い崖になっていて、天然の要害になっていました。
井戸跡や木橋の跡を見ながら、二の丸から本丸へと向かいます。
本丸は広くとられており、ここに御殿があったのでしょう。
地図を見ると、かなりの城であったことがわかります。8年しか存在していなかった城だからこそ、遺構が残ったともいえ、発掘調査の成果が説明されていました。
最初の城主、武田勝頼は天正9年(1581年)12月24日に甲府の武田氏館からこの新府城へ移ったそうです。ただ間もなく翌天正10年(1582年)2月には織田信長の甲州征伐が始まり、各地で武田、織田の戦いが続いたそうです。そして劣勢の武田勝頼は3月3日、この新府城に火を放ち、逃亡しましたが、3月11日家臣に裏切られ、自刃することになりました。在城は3か月、実際は出陣していた時期も考えれば、そんなにはこの城にはいなかったのかもしれません。いろいろな意味で非運な武将であったのかもしれません。
黄昏時の城跡を歩きながら、悲運の武将に思いをはせながら城巡りを終えました。
甲府までレンタカーをすっ飛ばし、返却。帰りの特急「かいじ」号は新型のE353系でした。
4つの城を巡って、戦国、安土桃山時代の甲府国の主な城を巡れました。
E257系で行く、山梨城巡りの旅 終了。
2019年09月20日
鳥もつ丼を食らう~E257系で行く、山梨城巡りの旅5~
要害山城を降りて、昼食を食べる前に甲府駅北口の甲府市藤村記念館に寄ります。
明治時代に学校の校舎として建てられた建物が移築されていて、その中に要害山城の「続日本100名城スタンプ」があり、押すことに成功しました。
北口にはJRの駅に分断された甲府城の山手御門が復元されていました。
中も入ることができて見学できました。
さて昼食です。車を走らせて、奥藤本店国母店にやってきました。
B-1グランプリ全国制覇した鳥もつ丼の元祖店だそうです。
初めて食べた味でしたが、甘辛くて美味しゅうございました。
ご飯食べた後、西北へ向かいます。到着したのは韮崎市民俗資料館。
ここにも「続日本100名城スタンプ」がありました。ここのスタンプは新府城のものでした。新府城は武田信玄の息子、勝頼が武田神社の武田氏館から本拠を移した城でした。城自体は完成して数か月で放棄され、そのまま武田氏は滅亡し、その後、織田、徳川氏の領有を経て、8年ぐらいで廃城になってしまった悲運な城でした。
韮崎市民俗資料館自体は少し昔の資料館でした。そろそろ夕方。最後の城、新府城へ向かいます。
6へ続く
明治時代に学校の校舎として建てられた建物が移築されていて、その中に要害山城の「続日本100名城スタンプ」があり、押すことに成功しました。
北口にはJRの駅に分断された甲府城の山手御門が復元されていました。
中も入ることができて見学できました。
さて昼食です。車を走らせて、奥藤本店国母店にやってきました。
B-1グランプリ全国制覇した鳥もつ丼の元祖店だそうです。
初めて食べた味でしたが、甘辛くて美味しゅうございました。
ご飯食べた後、西北へ向かいます。到着したのは韮崎市民俗資料館。
ここにも「続日本100名城スタンプ」がありました。ここのスタンプは新府城のものでした。新府城は武田信玄の息子、勝頼が武田神社の武田氏館から本拠を移した城でした。城自体は完成して数か月で放棄され、そのまま武田氏は滅亡し、その後、織田、徳川氏の領有を経て、8年ぐらいで廃城になってしまった悲運な城でした。
韮崎市民俗資料館自体は少し昔の資料館でした。そろそろ夕方。最後の城、新府城へ向かいます。
6へ続く
2019年09月13日
山城に登る~E257系で行く、山梨城巡りの旅4~
武田氏館を後にして、要害山城へ向かいます。車で10分ほど北に向かうと、駐車場があり、そこに止めました。登山口へ向かいます。
山の上に城があるので、地図見ながら登り始めます。
途中、武田氏館からの道と合流しました。有事の際はこの道を通って要害山城に行ったのかもしれません。
どんどん登っていくと、「史跡境界」を発見。ここから上が史跡になっているとのこと。
山道の途中で、いろいろな遺構がありますが、ほとんど藪の中でわからないのが残念ですね。
竪堀跡
竪堀跡と土塁
門跡
曲輪
不動曲輪、この名前は後世につけられたもののようで、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものだそうです。
石垣の跡
さらに登り続けていると、眼下に武田氏館が見えました。
ようやく、山上に着き門跡をこえると、本丸らしいところに出ました。
いくつか建物が建てられる広さのある曲輪の中に武田信玄誕生の碑がありました。
武田信玄の誕生時に駿河の今川氏が攻めてきたために、信玄の母親大井夫人が、この場所に避難してきて、ここで信玄を生んだとのこと。この要害山城は有事の際は武田氏館からこの地に避難してきて、籠城できるようにしたそうです。
本丸からは、富士山が見えました。
ここまで約30分かかって登ってきました。また30分かけて降ります。
そろそろ昼食を食べたくなってきました。
5へ続く。
山の上に城があるので、地図見ながら登り始めます。
途中、武田氏館からの道と合流しました。有事の際はこの道を通って要害山城に行ったのかもしれません。
どんどん登っていくと、「史跡境界」を発見。ここから上が史跡になっているとのこと。
山道の途中で、いろいろな遺構がありますが、ほとんど藪の中でわからないのが残念ですね。
竪堀跡
竪堀跡と土塁
門跡
曲輪
不動曲輪、この名前は後世につけられたもののようで、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものだそうです。
石垣の跡
さらに登り続けていると、眼下に武田氏館が見えました。
ようやく、山上に着き門跡をこえると、本丸らしいところに出ました。
いくつか建物が建てられる広さのある曲輪の中に武田信玄誕生の碑がありました。
武田信玄の誕生時に駿河の今川氏が攻めてきたために、信玄の母親大井夫人が、この場所に避難してきて、ここで信玄を生んだとのこと。この要害山城は有事の際は武田氏館からこの地に避難してきて、籠城できるようにしたそうです。
本丸からは、富士山が見えました。
ここまで約30分かかって登ってきました。また30分かけて降ります。
そろそろ昼食を食べたくなってきました。
5へ続く。
2019年09月06日
人は城、人は石垣、人は堀~E257系で行く、山梨城巡りの旅3~
駅前に戻り、レンタカーを借ります。えきねっとで駅レンタカーが安くなるので、大助かりです。まずは武田信玄の本拠地、武田氏館こと躑躅ヶ崎館へ。いまは武田信玄をまつる武田神社があります。大正時代に作られたそうで、その時に城跡の一部を壊してしまったそうですが、比較的遺構が残っていて、日本100名城の一つに選ばれているそうです。
今の武田神社の入り口は立派な石垣ですが、本来はここには門はなく、神社創建時に石垣を壊して橋と入り口を作ったそうです。
ここからの甲府市街地の眺めは素晴らしく、ここに門がなかったのは不思議なくらいですが、戦国時代なので、防御が一番だったのかもしれませんね。
神社に参拝して、館の周りを一周します。基本は石垣ではなく土塁と堀ですね。
中に入ります。
中はこんな感じ、神社以外のところはあるがままでした。
西側の曲輪の北門は武田氏の作った桝形虎口と呼ばれる跡が残っていました。
館の北側は発掘調査が行われていました。奥の山々の一つがこの後行く要害山城です。
北側から、曲輪見ると深い堀、石垣と土塁が見えます。こちらのほうが戦国時代の感じが残っていますね。
城の東側に回ると、大手門の跡がありました。門前は発掘調査が行われたそうで、展示がされていました。
大手門跡の入り口です。戦国時代の入り口はここだったそうです。
東側の堀。
上から見た図もあったので撮影してみました。
結構、堀なども険しく堅固な館でしたが、戦国時代、戦いには万全とは言えず、戦いのときはそこに立てこもって身を守る、詰城として山城の要害山城があったそうで、これからそこに行きます。
4へ続く。
今の武田神社の入り口は立派な石垣ですが、本来はここには門はなく、神社創建時に石垣を壊して橋と入り口を作ったそうです。
ここからの甲府市街地の眺めは素晴らしく、ここに門がなかったのは不思議なくらいですが、戦国時代なので、防御が一番だったのかもしれませんね。
神社に参拝して、館の周りを一周します。基本は石垣ではなく土塁と堀ですね。
中に入ります。
中はこんな感じ、神社以外のところはあるがままでした。
西側の曲輪の北門は武田氏の作った桝形虎口と呼ばれる跡が残っていました。
館の北側は発掘調査が行われていました。奥の山々の一つがこの後行く要害山城です。
北側から、曲輪見ると深い堀、石垣と土塁が見えます。こちらのほうが戦国時代の感じが残っていますね。
城の東側に回ると、大手門の跡がありました。門前は発掘調査が行われたそうで、展示がされていました。
大手門跡の入り口です。戦国時代の入り口はここだったそうです。
東側の堀。
上から見た図もあったので撮影してみました。
結構、堀なども険しく堅固な館でしたが、戦国時代、戦いには万全とは言えず、戦いのときはそこに立てこもって身を守る、詰城として山城の要害山城があったそうで、これからそこに行きます。
4へ続く。
2019年09月02日
駅前の城~E257系で行く、山梨城巡りの旅2~
更新が遅れました。申し訳ありません。
甲府駅を降りると、ホームから城の石垣が見えます。甲府城です。さっそく向かいます。石垣だけでなく、櫓なども復元されています。これは稲荷櫓です。
江戸時代は甲府駅の敷地も城の中でしたが、明治以降に駅になり分断されてしまいました。駅の反対側にも山手御門という門が復元されています。
稲荷櫓の中に入れました。ここで100名城スタンプが押せます。展示もしてました。
甲府というと、戦国武将の武田信玄が有名ですが、信玄の時代にはこの城はありませんでした。戦国時代は北のほうに後で行く躑躅ヶ崎館というところが武田氏の本拠地でした。その頃はここら辺は城下町の南端だったそうです。武田氏が滅亡し、織田、北条、徳川氏の領有のあと、豊臣秀吉の家来によって築城されたそうです。江戸時代に入ると、徳川将軍家の親族が領有する城になり、のちには江戸幕府直轄領になったのでした。そのため、ほぼ戦争を体験していない城です。
城内はほかにも鉄門などが復元されています。
いよいよ城の中心、本丸です。奥には天守台が見えます。
天守台に上がると、甲府の街が一望です。
遠くには富士山、
南アルプスも見えます。
ここに天守閣があったかは分からないとのこと。当時の絵図や図面は見つからないそうで、なかったのではないかということですが、発掘調査だと豊臣時代の瓦の破片などが見つかったそうで、築城当時はあったが、いつかの時点で一度壊れて、再建されなかったというのが真相のような気がします。
城を一回りして、駅前に戻ります。
3へ続く
甲府駅を降りると、ホームから城の石垣が見えます。甲府城です。さっそく向かいます。石垣だけでなく、櫓なども復元されています。これは稲荷櫓です。
江戸時代は甲府駅の敷地も城の中でしたが、明治以降に駅になり分断されてしまいました。駅の反対側にも山手御門という門が復元されています。
稲荷櫓の中に入れました。ここで100名城スタンプが押せます。展示もしてました。
甲府というと、戦国武将の武田信玄が有名ですが、信玄の時代にはこの城はありませんでした。戦国時代は北のほうに後で行く躑躅ヶ崎館というところが武田氏の本拠地でした。その頃はここら辺は城下町の南端だったそうです。武田氏が滅亡し、織田、北条、徳川氏の領有のあと、豊臣秀吉の家来によって築城されたそうです。江戸時代に入ると、徳川将軍家の親族が領有する城になり、のちには江戸幕府直轄領になったのでした。そのため、ほぼ戦争を体験していない城です。
城内はほかにも鉄門などが復元されています。
いよいよ城の中心、本丸です。奥には天守台が見えます。
天守台に上がると、甲府の街が一望です。
遠くには富士山、
南アルプスも見えます。
ここに天守閣があったかは分からないとのこと。当時の絵図や図面は見つからないそうで、なかったのではないかということですが、発掘調査だと豊臣時代の瓦の破片などが見つかったそうで、築城当時はあったが、いつかの時点で一度壊れて、再建されなかったというのが真相のような気がします。
城を一回りして、駅前に戻ります。
3へ続く
2019年08月23日
さよならE257系~E257系で行く、山梨城巡りの旅1~
2019年の2月に山梨県の城巡りをしてきました。最近日本100名城めぐりにはまっていて、続100名城も含めて山梨県にある4つの城を巡りたいなと思っていました。
ちょうど2019年3月のJRのダイヤ改正で長年中央線を走ってきた特急あずさのE257系車両が新型車両E353系に置き換えられるということで、その惜別をしたいなとも思っていました。また3月のダイヤ改正では新型車両に代わるとともに、自由席がなくなり、全車座席指定席になるとのこと。それだけではなく、今まで事前購入で安くなっていたえきねっとのチケットの割引率が引き下げられるとのことで、安く行くには今のうちだということで2月のある日曜日に山梨へ向かうことにしました。
新宿駅7時30分の「あずさ3号」で甲府へ向かいます。現地で長くいたいのなら30分早く出る「スーパーあずさ1号」ですが、新型車両に代わってしまっているので、3号にしたのでした。
E257系は武田菱を模したであろうデザインが印象的です。
冬の中央線に乗ると、富士山がきれいに見えるのはいつものことですがうれしいですね。
勝沼を過ぎると、甲府盆地がきれいに見えてきます。
甲府盆地の向こうには南アルプスが雪をかぶっておりました。
甲府盆地から見る富士山は関東平野から見るものとはまた別のものですね。
9時03分甲府へ到着。ここで降ります。甲府では新旧の車両を見ることができました。
2001年の登場以来何度も乗った中央線のE257系とはたぶんこれでお別れです。お世話になりました。聞いたところによると、廃車にならず、伊豆行きの特急「踊り子号」の車両に転用されるらしいので、また乗りに行きたいと思います。
2へ続く。
ちょうど2019年3月のJRのダイヤ改正で長年中央線を走ってきた特急あずさのE257系車両が新型車両E353系に置き換えられるということで、その惜別をしたいなとも思っていました。また3月のダイヤ改正では新型車両に代わるとともに、自由席がなくなり、全車座席指定席になるとのこと。それだけではなく、今まで事前購入で安くなっていたえきねっとのチケットの割引率が引き下げられるとのことで、安く行くには今のうちだということで2月のある日曜日に山梨へ向かうことにしました。
新宿駅7時30分の「あずさ3号」で甲府へ向かいます。現地で長くいたいのなら30分早く出る「スーパーあずさ1号」ですが、新型車両に代わってしまっているので、3号にしたのでした。
E257系は武田菱を模したであろうデザインが印象的です。
冬の中央線に乗ると、富士山がきれいに見えるのはいつものことですがうれしいですね。
勝沼を過ぎると、甲府盆地がきれいに見えてきます。
甲府盆地の向こうには南アルプスが雪をかぶっておりました。
甲府盆地から見る富士山は関東平野から見るものとはまた別のものですね。
9時03分甲府へ到着。ここで降ります。甲府では新旧の車両を見ることができました。
2001年の登場以来何度も乗った中央線のE257系とはたぶんこれでお別れです。お世話になりました。聞いたところによると、廃車にならず、伊豆行きの特急「踊り子号」の車両に転用されるらしいので、また乗りに行きたいと思います。
2へ続く。
2019年08月16日
ホテルとばんえい競馬とピザ~十勝ジュエリーアイスの旅(後)~
今夜の宿は帯広市内の北海道ホテルです。
北海道ホテルは帯広で泊まってみたいホテルでした。あまり特定のホテルに泊まりたいとは思いませんが、このホテルはいろいろな評判を聞いて泊まってみたいと思っていました。今回の旅行はJALのダイナミックパッケージで予約しました。通常は一番安いホテルを予約するのですが、今回は特別料金を払って北海道ホテルを予約したのでした。
部屋はツインでした。広くてテーブルもあり、高級感を味わうことができました。
ぐっすり眠ることができました。翌朝、朝食を取りにレストランへと向かいます。ロビーも広く、レンガの色が高級感を醸し出します。
レストランでははやりの朝食バイキングではなく、和と洋が選べるとのことで、洋朝食を選びました。レストランの外は広い庭になっていて、リスが出てきて、思わずほっこりしました。
まずはジュース。これはセルフでもらってきました。地元産の牛乳もありました。
そして洋朝食。
美味しくいただきました。
ホテルの内装も主に木を使っていて、温かみのあるものでした。
今日は特に予定がないので、ホテルでグダグダして、11時ころチェックアウトしました。
もうお昼前。昼食の時間なので、十勝名物の豚丼を食します。せっかく車なので、ちょっと駅から離れた「とん田」へ。
いろいろな部位の豚丼があるようですが、ロースとバラの盛り合わせにしました。
これもおいしゅうございました。
腹ごなしに、初訪問の「ばんえい競馬場」へ。
ばんえい競馬は1トンはあろう、ソリを引いて競争するというもので、通常の競馬と違って、コースは直線でした。みんな中で馬券を買っていて、スタンドには誰もいません。
人生ほぼ初の競馬を体験してみました。思い付きで馬券を購入して、コースに出てみます。レース開始なのでみんな少しずつ集まりました。
さあ始まります。
ばんえい競馬の面白いところは、ずっと馬が走るわけではなく、途中で休憩を入れて止まったりするので、駆け引きが見られたりするところですね。
よく見ると砂地なんですね。
残念ながら馬券を買った馬は最初はトップでしたが、途中で失速して4位でした。この競馬の馬は結構わがままで、途中で寝転がってしまう馬もいて、面白いレースでした。
そのあとは車を西へ走らせます。以前買い物をした芽室のみのりーむへ。以前買い物をしてよかったので再訪したのですが、定休日とのことで、インデアンカレーだけ持ち帰りで購入しました。
芽室から、いくつか郵便局を巡りながら南下していきます。ここまでくると日高山脈がまじかに見えます。
だいぶ日が暮れてきました。
ありがたいことに、ほぼ道は雪がなく普通に走ることができてよかったです。
この度の最後の目的地、更別のピザの店「TUKA」へ。
まだ夕食に早い時間で、私一人でしたが、ピザが美味しいと聞いていたので生ハムのピザを注文しました。
いやあ美味しかった!
あとは帯広空港から帰るだけです。今回はジュエリーアイスは満足できず、次回回しでしたが、それ以外は満足な十勝旅行でした。
十勝ジュエリーアイスの旅 終わり
北海道ホテルは帯広で泊まってみたいホテルでした。あまり特定のホテルに泊まりたいとは思いませんが、このホテルはいろいろな評判を聞いて泊まってみたいと思っていました。今回の旅行はJALのダイナミックパッケージで予約しました。通常は一番安いホテルを予約するのですが、今回は特別料金を払って北海道ホテルを予約したのでした。
部屋はツインでした。広くてテーブルもあり、高級感を味わうことができました。
ぐっすり眠ることができました。翌朝、朝食を取りにレストランへと向かいます。ロビーも広く、レンガの色が高級感を醸し出します。
レストランでははやりの朝食バイキングではなく、和と洋が選べるとのことで、洋朝食を選びました。レストランの外は広い庭になっていて、リスが出てきて、思わずほっこりしました。
まずはジュース。これはセルフでもらってきました。地元産の牛乳もありました。
そして洋朝食。
美味しくいただきました。
ホテルの内装も主に木を使っていて、温かみのあるものでした。
今日は特に予定がないので、ホテルでグダグダして、11時ころチェックアウトしました。
もうお昼前。昼食の時間なので、十勝名物の豚丼を食します。せっかく車なので、ちょっと駅から離れた「とん田」へ。
いろいろな部位の豚丼があるようですが、ロースとバラの盛り合わせにしました。
これもおいしゅうございました。
腹ごなしに、初訪問の「ばんえい競馬場」へ。
ばんえい競馬は1トンはあろう、ソリを引いて競争するというもので、通常の競馬と違って、コースは直線でした。みんな中で馬券を買っていて、スタンドには誰もいません。
人生ほぼ初の競馬を体験してみました。思い付きで馬券を購入して、コースに出てみます。レース開始なのでみんな少しずつ集まりました。
さあ始まります。
ばんえい競馬の面白いところは、ずっと馬が走るわけではなく、途中で休憩を入れて止まったりするので、駆け引きが見られたりするところですね。
よく見ると砂地なんですね。
残念ながら馬券を買った馬は最初はトップでしたが、途中で失速して4位でした。この競馬の馬は結構わがままで、途中で寝転がってしまう馬もいて、面白いレースでした。
そのあとは車を西へ走らせます。以前買い物をした芽室のみのりーむへ。以前買い物をしてよかったので再訪したのですが、定休日とのことで、インデアンカレーだけ持ち帰りで購入しました。
芽室から、いくつか郵便局を巡りながら南下していきます。ここまでくると日高山脈がまじかに見えます。
だいぶ日が暮れてきました。
ありがたいことに、ほぼ道は雪がなく普通に走ることができてよかったです。
この度の最後の目的地、更別のピザの店「TUKA」へ。
まだ夕食に早い時間で、私一人でしたが、ピザが美味しいと聞いていたので生ハムのピザを注文しました。
いやあ美味しかった!
あとは帯広空港から帰るだけです。今回はジュエリーアイスは満足できず、次回回しでしたが、それ以外は満足な十勝旅行でした。
十勝ジュエリーアイスの旅 終わり
2019年08月09日
ジュエリーアイスを見に~2019,2十勝ジュエリーアイスの旅(前)~
2019年の冬、北海道十勝まで行ってきました。冬の十勝は何回か行っていますが、今回は十勝のジュエリーアイスを見るのが目的です。ジュエリーアイスとは凍った十勝川の水が海に流れ出て付近の海岸に流れ着いたもので、流氷と同じものですが、氷が透明できれいだということで、最近人気が出てきたものです。地元、豊頃町もHPを作るなど力を入れています。
まずは帯広空港へ。
レンタカーを借りて、帯広へ。冬の北海道で車を借りるのは勇気がいりますが、公共交通機関で行くのは大変なので借りました。まずは帯広市内の帯広百年記念館へ。
帯広を中心とした十勝の歴史が展示されていました。
マンモスの展示は驚きましたが、展示自体は少し古めで、リニューアルしたほうが良いかなと思いました。
そのまま十勝川河口の大津へ。途中、豊頃町の朝日堂へ。
和菓子屋さんですが、ここのドーナツが美味しいとのことで、ドーナツを買ってきました。
十勝川の河口の街、大津へ。十勝の歴史はこの町から始まったとのことで、十勝発祥の碑が立っています。
十勝に限らず、北海道の開拓の歴史は海側から始まっているのでした。船で来て、そこからさかのぼって開拓していったということなんでしょうね。
その近くに駐車場がありました。
もう夕方近くで地元の案内所は閉まっていました。
海岸に出ます。
HPやほかの方の写真では海岸にびっしり氷があったのですが、来てみたら、ほとんどない状況でした。
数少ないいくつかを探して撮影してみます。
残念ながら、このあたりで終わりです。撮影中にカメラを海中に落としてしまうというアクシデントがあったこともあり、ここらで切り上げました。
少し車を走らせ、十勝川河口橋へ。
橋から十勝川を見ると、十勝川は一面氷結していました。この氷が海に流れ出て、ジュエリーアイスになるのですが、今回はうまくなかったようです。
大樹町のほうへ車を走らせて、晩成温泉へ。
浴槽から海の見える温泉なのですが、もう夜なので何も見えず。温泉自体も高濃度のヨウ素を含むそうでヨードの湯と宣伝していました。
ここの食堂では大樹町のご当地グルメ「大樹チーズサーモン丼」があるので、食べてみました。
とてもおいしゅうございました。
今夜の宿へ向かいます。
(後)へ続く。
まずは帯広空港へ。
レンタカーを借りて、帯広へ。冬の北海道で車を借りるのは勇気がいりますが、公共交通機関で行くのは大変なので借りました。まずは帯広市内の帯広百年記念館へ。
帯広を中心とした十勝の歴史が展示されていました。
マンモスの展示は驚きましたが、展示自体は少し古めで、リニューアルしたほうが良いかなと思いました。
そのまま十勝川河口の大津へ。途中、豊頃町の朝日堂へ。
和菓子屋さんですが、ここのドーナツが美味しいとのことで、ドーナツを買ってきました。
十勝川の河口の街、大津へ。十勝の歴史はこの町から始まったとのことで、十勝発祥の碑が立っています。
十勝に限らず、北海道の開拓の歴史は海側から始まっているのでした。船で来て、そこからさかのぼって開拓していったということなんでしょうね。
その近くに駐車場がありました。
もう夕方近くで地元の案内所は閉まっていました。
海岸に出ます。
HPやほかの方の写真では海岸にびっしり氷があったのですが、来てみたら、ほとんどない状況でした。
数少ないいくつかを探して撮影してみます。
残念ながら、このあたりで終わりです。撮影中にカメラを海中に落としてしまうというアクシデントがあったこともあり、ここらで切り上げました。
少し車を走らせ、十勝川河口橋へ。
橋から十勝川を見ると、十勝川は一面氷結していました。この氷が海に流れ出て、ジュエリーアイスになるのですが、今回はうまくなかったようです。
大樹町のほうへ車を走らせて、晩成温泉へ。
浴槽から海の見える温泉なのですが、もう夜なので何も見えず。温泉自体も高濃度のヨウ素を含むそうでヨードの湯と宣伝していました。
ここの食堂では大樹町のご当地グルメ「大樹チーズサーモン丼」があるので、食べてみました。
とてもおいしゅうございました。
今夜の宿へ向かいます。
(後)へ続く。
2019年08月02日
たびきっぷで新幹線~たびきっぷで飛騨、美濃乗り歩き7~
富加駅から1本後の列車で美濃太田駅へ。途中、朝降りた加茂野駅の桜を眺めます。晴れていていい感じです。
美濃太田駅では水戸岡デザインの椅子がきれいに並んでいました。
ここから東京へと戻ります。普通ならば、岐阜に出て東海道線を行くのが早いのですが、せっかく私鉄や第三セクターの鉄道にも乗ることができる「たびきっぷ」を持っているのですから、違うルートで帰ることにしました。
まずは太多線のディーゼルカーで多治見へ。
途中、姫駅で写真を1枚。
そして多治見から中央線で高蔵寺へ。
高蔵寺から第三セクターの愛知環状鉄道で岡崎へ。
途中で日が暮れます。
岡崎から東海道線にに入り、特別快速で豊橋へ。さすがに早い!25分で着きました。
そして豊橋からは普通列車で浜松へ。
時間は20時。このまま普通列車に乗り継いでも、東京には帰れません。ここで1駅新幹線に乗ります。「たびきっぷ」では特急券を買えば、熱海~米原の東海道新幹線に4回までなら乗車可能になってます。1駅ならば、860円か980円の特定料金で自由席に乗れるので、長い区間を乗ろうということで、距離の長い浜松~静岡で乗ることにしました。途中に掛川駅があるじゃないかといわれそうですが、1駅区間の特定料金の制度ができたのが、国鉄時代で掛川駅に新幹線の駅ができる前なので、ここはお得な区間なのでした。
駅弁とビールで夕食にします。
新幹線で静岡へ
普通列車に乗り換え、沼津へ。
駅前に沼津機関区の碑がありました。ここは御殿場線まわりの線路が東海道線の頃は機関車の基地がここにあったとのこと。一大機関車基地だったそうです。
沼津から御殿場線の国府津行き最終列車で松田駅へ。車内はガラガラでした。
松田で小田急線に乗り換え、東京まで帰りました。目いっぱい「たびきっぷ」を使えてお得な旅になりました。できれば特急券買うので、切符の有効区間が東京まで使えるようになってほしいものです。
~たびきっぷで飛騨、美濃乗り歩き~終わり
美濃太田駅では水戸岡デザインの椅子がきれいに並んでいました。
ここから東京へと戻ります。普通ならば、岐阜に出て東海道線を行くのが早いのですが、せっかく私鉄や第三セクターの鉄道にも乗ることができる「たびきっぷ」を持っているのですから、違うルートで帰ることにしました。
まずは太多線のディーゼルカーで多治見へ。
途中、姫駅で写真を1枚。
そして多治見から中央線で高蔵寺へ。
高蔵寺から第三セクターの愛知環状鉄道で岡崎へ。
途中で日が暮れます。
岡崎から東海道線にに入り、特別快速で豊橋へ。さすがに早い!25分で着きました。
そして豊橋からは普通列車で浜松へ。
時間は20時。このまま普通列車に乗り継いでも、東京には帰れません。ここで1駅新幹線に乗ります。「たびきっぷ」では特急券を買えば、熱海~米原の東海道新幹線に4回までなら乗車可能になってます。1駅ならば、860円か980円の特定料金で自由席に乗れるので、長い区間を乗ろうということで、距離の長い浜松~静岡で乗ることにしました。途中に掛川駅があるじゃないかといわれそうですが、1駅区間の特定料金の制度ができたのが、国鉄時代で掛川駅に新幹線の駅ができる前なので、ここはお得な区間なのでした。
駅弁とビールで夕食にします。
新幹線で静岡へ
普通列車に乗り換え、沼津へ。
駅前に沼津機関区の碑がありました。ここは御殿場線まわりの線路が東海道線の頃は機関車の基地がここにあったとのこと。一大機関車基地だったそうです。
沼津から御殿場線の国府津行き最終列車で松田駅へ。車内はガラガラでした。
松田で小田急線に乗り換え、東京まで帰りました。目いっぱい「たびきっぷ」を使えてお得な旅になりました。できれば特急券買うので、切符の有効区間が東京まで使えるようになってほしいものです。
~たびきっぷで飛騨、美濃乗り歩き~終わり
2019年07月26日
「ながら」に乗る~たびきっぷで飛騨、美濃乗り歩き6~
郡上八幡駅は開業当時からの古い木造駅舎が残っていて、リニューアル工事をしていました。工事はGWにはオープンするとのことで楽しみは次回に残しておきます。
郡上八幡駅からは、観光列車「ながら」に乗ります。
13時50分頃に北濃からの「ながら」がやってきました。この車両は「森」号で整理券を購入して、乗り込みます。車内はこんな感じ。
列車のデザインはJR九州の観光列車を手がけた水戸岡鋭治氏がやっていて、水戸岡デザインの車内装飾ですね。
ここから「ながら」は2号車「鮎」号を連結して、2両編成で運行します。2号車はレストラン車両で。ランチプラン、スイートプランの乗客のみ利用できるそうです。
14時12分、郡上八幡駅を発車しました。2019年7月現在では「たびきっぷ」では「ながら」号は乗車できないですが、2017年春時点では「たびきっぴ」でもOKだったので、500円の乗車整理券を購入して乗車しました。列車は長良川沿いを走っていきます。
先ほど降りた大矢駅に到着。
雲が切れて晴れ上がりました。桜が映えます。
1時間ほど乗って、富加駅で降ります。富加は美濃平野に入っているので、桜が散り始めていました。
乗った感想はいまいちですかね。確かに車両はきれいですが、水戸岡デザインが各地に走っているので、目新しさがなくなっているのもあります。あと車両ばかりに力が入っていて、係員のおもてなしが感じられないです。例えば、郡上八幡駅での車両の連結時に、連結面にレストランスタッフが業務に関係ないのに、ただ突っ立っているのはいただけないですね。一般の乗客には車両の連結は珍しいので観光資源になるのに、それをみすみす逃している気がします。レストラン車両をただ食事を出す車両だけだと認識しているのであれば、飽きられてしまう気がします。
富加駅は木造駅舎が残っていましたが、横に会計事務所が増築されていました。
さてここから長い時間をかけて、帰宅します。
7へ続く。
郡上八幡駅からは、観光列車「ながら」に乗ります。
13時50分頃に北濃からの「ながら」がやってきました。この車両は「森」号で整理券を購入して、乗り込みます。車内はこんな感じ。
列車のデザインはJR九州の観光列車を手がけた水戸岡鋭治氏がやっていて、水戸岡デザインの車内装飾ですね。
ここから「ながら」は2号車「鮎」号を連結して、2両編成で運行します。2号車はレストラン車両で。ランチプラン、スイートプランの乗客のみ利用できるそうです。
14時12分、郡上八幡駅を発車しました。2019年7月現在では「たびきっぷ」では「ながら」号は乗車できないですが、2017年春時点では「たびきっぴ」でもOKだったので、500円の乗車整理券を購入して乗車しました。列車は長良川沿いを走っていきます。
先ほど降りた大矢駅に到着。
雲が切れて晴れ上がりました。桜が映えます。
1時間ほど乗って、富加駅で降ります。富加は美濃平野に入っているので、桜が散り始めていました。
乗った感想はいまいちですかね。確かに車両はきれいですが、水戸岡デザインが各地に走っているので、目新しさがなくなっているのもあります。あと車両ばかりに力が入っていて、係員のおもてなしが感じられないです。例えば、郡上八幡駅での車両の連結時に、連結面にレストランスタッフが業務に関係ないのに、ただ突っ立っているのはいただけないですね。一般の乗客には車両の連結は珍しいので観光資源になるのに、それをみすみす逃している気がします。レストラン車両をただ食事を出す車両だけだと認識しているのであれば、飽きられてしまう気がします。
富加駅は木造駅舎が残っていましたが、横に会計事務所が増築されていました。
さてここから長い時間をかけて、帰宅します。
7へ続く。
2019年07月19日
古い駅舎と桜と~たびきっぷで飛騨、美濃乗り歩き5~
美濃市から長良川鉄道に乗ります。途中の駅で古い駅舎と桜のきれいな駅が見えました。できれば降りてみたいものです。
深戸駅で降りました。
木造駅舎が残っていました。
残念ながら無人駅で、待合室は朝市の売り場になっていました。
ホームも駅前も桜の木は切られていました。聞けば、桜の木が老木になり、倒木の可能性があるので切ってしまったそうです。無粋だとは思いますが、管理する人がいないのでやむをえないでしょう。これから各地で、昭和の時期に植えられた桜が切られていくのかもしれません。桜自体はまた植えられていくのでしょうが、利用者が減った駅に植えられるのかはわかりません。
駅前に出て歩いてみると、川沿いの桜が満開でした。
反対列車に乗ります。行きに気になった駅に降りてみます。
大矢駅。桜のきれいな駅でした。
駅舎と桜のきれいな駅です。
駅舎も古い木造駅舎。なかなかこういう駅は少ないです。
無人駅ですが、駅事務室は資料室になっていていろいろ展示されていました。
気になったのは傘。昔は販促でこういうものまで作っていたんですね。
この駅はいろいろ面白いものがあり、駅近の看板にこんなものが。
また列車に乗って、美並苅安駅へ。桜と2ショット撮りました。駅舎は昭和3年建築のまま残っていました。
ちょっと戻って「みなみ子宝温泉」駅へ。
ここで温泉に入り、昼食にみそかつ丼を食べました。この駅にも北上線のほっとゆだ駅のように、列車が近づくと、信号が変わる装置が設置されていました。
また列車に乗り、郡上八幡駅に向かいます。途中、先ほど降りた大矢駅を通ります。ずっと曇ってきた空が、少しずつ空が晴れてきました。
駅舎工事中の郡上八幡駅に到着です。
6へ続く。
深戸駅で降りました。
木造駅舎が残っていました。
残念ながら無人駅で、待合室は朝市の売り場になっていました。
ホームも駅前も桜の木は切られていました。聞けば、桜の木が老木になり、倒木の可能性があるので切ってしまったそうです。無粋だとは思いますが、管理する人がいないのでやむをえないでしょう。これから各地で、昭和の時期に植えられた桜が切られていくのかもしれません。桜自体はまた植えられていくのでしょうが、利用者が減った駅に植えられるのかはわかりません。
駅前に出て歩いてみると、川沿いの桜が満開でした。
反対列車に乗ります。行きに気になった駅に降りてみます。
大矢駅。桜のきれいな駅でした。
駅舎と桜のきれいな駅です。
駅舎も古い木造駅舎。なかなかこういう駅は少ないです。
無人駅ですが、駅事務室は資料室になっていていろいろ展示されていました。
気になったのは傘。昔は販促でこういうものまで作っていたんですね。
この駅はいろいろ面白いものがあり、駅近の看板にこんなものが。
また列車に乗って、美並苅安駅へ。桜と2ショット撮りました。駅舎は昭和3年建築のまま残っていました。
ちょっと戻って「みなみ子宝温泉」駅へ。
ここで温泉に入り、昼食にみそかつ丼を食べました。この駅にも北上線のほっとゆだ駅のように、列車が近づくと、信号が変わる装置が設置されていました。
また列車に乗り、郡上八幡駅に向かいます。途中、先ほど降りた大矢駅を通ります。ずっと曇ってきた空が、少しずつ空が晴れてきました。
駅舎工事中の郡上八幡駅に到着です。
6へ続く。