2015年07月16日
硫黄島観光(後)~十島と三島、奄美完訪船の旅10~
朝、朝食前に散歩を兼ねて硫黄島中心部を観光します。

港の前には江戸時代の御番所後の看板がありました。

江戸時代、薩摩藩の支配下にあった三島村は御船手奉行の配下にあったそうで、硫黄島では年貢代わりの貢租として米ではなく硫黄と木綿を納めていたのですね。
島の港からの一本道の先には熊野三山の新宮(速玉神社)にあてられた熊野神社があります。


説明板に寄れば、俊寛たちの流罪のあと、源平合戦の壇ノ浦の戦いで亡くなったとされる安徳天皇がこの地に逃れてきて、この地で居住されたといわれ、その子孫が薩摩藩の島津氏の危機を救ったことから、江戸時代に何度もこの神社は島津氏の費用で修理されたとのことです。

神社本殿の横には安徳天皇の息子の若宮があり、その子孫は長濱氏と称したそうです。
熊野神社の先には安徳天皇の墓所がありました。

ここには安徳天皇と、天皇と共に逃れてきた平家の人々のお墓がありました。

ここまであると、本当なのではないかと信じてしまいそうですが、史実としては満6歳で壇ノ浦の戦いで海の身を投じたということになっていて、宮内庁治定の天皇陵は山口県下関市にあります。また安徳天皇が壇ノ浦では亡くならず、へき地に逃げて生き延びたという説は日本各地にあったりします。実際逃れてきたとしても、隠しきれたのかは難しいところですが、なんとなく真実味はある気がするのはこの地だからでしょうか?
集落の中を歩くと、安徳天皇を取り巻く平家の人々の住んだ住居跡というものの碑が残っていたりします。

この越中次郎兵衛尉景光は平家の大将の一人のようです。

なんとなく京都みたいな小路の名前です。
港近くには安徳天皇の住んだ黒木御所もありました。


その後、子孫であるとされる長濱氏の住居になっていて、今は長濱氏は本土に住んでいるようで空き家になっており、敷地内を散策できました。敷地からは港が見えます。
これだけ証拠というか、ものがあると信じたくなりますね。後日、ネットでいろいろな情報をあたってみると、この地の有力者は平家方の人物で相当な力があり、当時の日宋貿易(今の日中貿易)にかかわっていたのではないか、その一族が権威づけとして創作したのではないかという話が有力な気がします。硫黄は当時からも日宋貿易の主な輸出品だったことを考えれば、この地の有力者の力は相当あったのでしょうね。また日本の辺境であるがゆえに、中央の追討などにおびえる心配もなかったのかもしれません。そう考えると、合点がいきますし、この辺境の島の日本史に占める影響の面白さも感じます。

宿に戻り朝食です。美味しくいただき宿代精算。レンタカー代等含めて12900円。結構な値段ですが、離島なのでやむをえません。

出港まで時間があったので、三島総合開発センターの2階の郷土資料展示室へ。ちなみに昨夜はこのセンターの一階の奥の温泉にも入りました。

小さいながらも面白い展示でした。この模型は硫黄島近辺の海も含めた模型です。左側の山々が硫黄島。右側が竹島。その南側は深海になっているんですね。火山の火口だったんでしょうね。

9時50分、黒島から「フェリーみしま」が戻ってきました。
乗り込んで10時09分、出港します。ジャンベスクールの人々がジャンベを演奏して送ってくれました。

踊りも披露してくれて、ありがたい限りです。
今日も硫黄岳は噴煙を上げておりました。

鹿児島へ戻ります。
11へ続く。

港の前には江戸時代の御番所後の看板がありました。

江戸時代、薩摩藩の支配下にあった三島村は御船手奉行の配下にあったそうで、硫黄島では年貢代わりの貢租として米ではなく硫黄と木綿を納めていたのですね。
島の港からの一本道の先には熊野三山の新宮(速玉神社)にあてられた熊野神社があります。


説明板に寄れば、俊寛たちの流罪のあと、源平合戦の壇ノ浦の戦いで亡くなったとされる安徳天皇がこの地に逃れてきて、この地で居住されたといわれ、その子孫が薩摩藩の島津氏の危機を救ったことから、江戸時代に何度もこの神社は島津氏の費用で修理されたとのことです。

神社本殿の横には安徳天皇の息子の若宮があり、その子孫は長濱氏と称したそうです。
熊野神社の先には安徳天皇の墓所がありました。

ここには安徳天皇と、天皇と共に逃れてきた平家の人々のお墓がありました。

ここまであると、本当なのではないかと信じてしまいそうですが、史実としては満6歳で壇ノ浦の戦いで海の身を投じたということになっていて、宮内庁治定の天皇陵は山口県下関市にあります。また安徳天皇が壇ノ浦では亡くならず、へき地に逃げて生き延びたという説は日本各地にあったりします。実際逃れてきたとしても、隠しきれたのかは難しいところですが、なんとなく真実味はある気がするのはこの地だからでしょうか?
集落の中を歩くと、安徳天皇を取り巻く平家の人々の住んだ住居跡というものの碑が残っていたりします。

この越中次郎兵衛尉景光は平家の大将の一人のようです。

なんとなく京都みたいな小路の名前です。
港近くには安徳天皇の住んだ黒木御所もありました。


その後、子孫であるとされる長濱氏の住居になっていて、今は長濱氏は本土に住んでいるようで空き家になっており、敷地内を散策できました。敷地からは港が見えます。
これだけ証拠というか、ものがあると信じたくなりますね。後日、ネットでいろいろな情報をあたってみると、この地の有力者は平家方の人物で相当な力があり、当時の日宋貿易(今の日中貿易)にかかわっていたのではないか、その一族が権威づけとして創作したのではないかという話が有力な気がします。硫黄は当時からも日宋貿易の主な輸出品だったことを考えれば、この地の有力者の力は相当あったのでしょうね。また日本の辺境であるがゆえに、中央の追討などにおびえる心配もなかったのかもしれません。そう考えると、合点がいきますし、この辺境の島の日本史に占める影響の面白さも感じます。

宿に戻り朝食です。美味しくいただき宿代精算。レンタカー代等含めて12900円。結構な値段ですが、離島なのでやむをえません。

出港まで時間があったので、三島総合開発センターの2階の郷土資料展示室へ。ちなみに昨夜はこのセンターの一階の奥の温泉にも入りました。

小さいながらも面白い展示でした。この模型は硫黄島近辺の海も含めた模型です。左側の山々が硫黄島。右側が竹島。その南側は深海になっているんですね。火山の火口だったんでしょうね。

9時50分、黒島から「フェリーみしま」が戻ってきました。
乗り込んで10時09分、出港します。ジャンベスクールの人々がジャンベを演奏して送ってくれました。

踊りも披露してくれて、ありがたい限りです。
今日も硫黄岳は噴煙を上げておりました。

鹿児島へ戻ります。
11へ続く。
Posted by さがるまーた at 18:00│Comments(0)
│2015,5 十島と三島、奄美完訪船の旅
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